ブレンパワード

 アニメ作家としてはもはや完全な死に体である富野由悠季氏が、珍しく具体的な同時代性テーマを扱った意欲作である。もっともそのテーマに自らが飛び込んで本質に迫ろうとするのではなく、あくまで手前のワンパターンな主義主張に引き寄せてダシにしているだけであるが。



 氏が本作によって挑んだのは、(あくまであたし個人の勝手な読み解きであるが)「現象としてのオウム真理教事件の富野氏流読み解きと、そのドラマとしての再構築」である!いやあ具体的だなあ。(^^)
 世紀の変わり目に起きたこのグロテスクな事件に、陳腐な「生き方論」めいたものを安売りしていた富野氏が大きなショックを受けなかったはずはなく、ましてメディアを通じて洩れ伝わってくる所謂「オウム的」なるもの、端的には信者らの思想(ヨイショ!)と習性が、氏の散々説いて回った「人としてピュアでありさえすればオバカさんでも良いんですよ」というニュータイプ像そのまんまであったから、氏としては現象としてのオウム事件を糾弾するにせよ擁護するにせよ、何か一言言わねばならないような心境になったのであろうと推察される。
 つまり氏は、自らのスタンスを再確認し、それを披瀝することによって、彼なりのケジメというか責任を果たすべきだと考えたのかもしれない。(番組開始時の抱負で、氏は「自分たちの世代が、現代青少年たちを全て親なし子にしてしまったのではないか?大人たちは何か間違ってしまったのではないか?それを反省したい」などとボカした書き方をしている)
 もっとも、そんなことを別に世間が期待しているわけではないことにも氏が無自覚であったはずはない。それ故の「ブレンパワード」であり、氏はエンターテナーとしての意見開陳はエンタテイメントによって果たそうという意地を通したのである。



 「ブレンパワード」は、地球規模の災厄に見舞われて、立ちすくんだり、右顧左眄したり、理想に固執したり、獣性に身をゆだねようとしたりする近未来の人々の群像を描いている。



 深海底から突如浮上を始めた巨大な構造物「オルファン」。大陸ほどの規模があるそれは、太古に外宇宙から飛来して水没した巨大な宇宙船、あるいは宇宙生命そのものであるらしいことが判明する。
 オルファンの動力源は生物の生体エネルギーであり、これが再び宇宙へ飛び立てば、その際に人類はエネルギーを吸い取り尽くされて滅びるかもしれない。
 この危機にあって、オルファンと共に宇宙へ出ようと計る先鋭的科学者集団、皆共に生き残る道を模索しようとする民間団体、陰でグロテスクな陰謀を進める旧体制国家、その他諸々らが入り乱れての全地球的サバイバル合戦が始まる。
 彼らの武器は、オルファンと共に地上に現れた無数の使役ロボット、「アンチボディ」であった!


 
 ・・・というのがストーリーのあらまし(多分)で、富野氏らしい、なかなかダイナミックで魅力的な設定ではある。
 とは言え本作は、過去の氏の作品に比するとかなりあからさまな「例え話」的構造となっており、だから視聴者としては物語をそのまま楽しむのも良いが、どうせならば挑発に乗って、散りばめられた陳腐な暗喩をチマチマと読み解いていくのも良いだろう。



 キモとなるのはもちろん「オルファン」なるものが何のメタファーであるのかということだが、これは明らかに、世紀末日本を覆う「満たされない者たち」の思いを表している。
 富野氏が描く世界は、それがコロニー社会であれ惑星ゾラであれバイストン・ウェルであれ、全てその時点での現代日本社会のカリカチュアである。「ブレンパワード」においては危機に瀕した全地球社会がそれに当たり、つまり戦後日本社会がその子宮から生み出した澱(おり)の象徴としてオルファンは描かれる。そしてその澱は、自らではなく社会の方を浄化せよと渇望するのだ。



 さてそこでオウム教であるが、あの事件には様々な側面があれ、きわめて大まかに言ってしまえば、「真面目人間たちの逆ギレ」とでも総括できるのではないか。
 戦後この国は享楽にのみ隷従することを是とし、食べて着飾って遊ぶには不足ないけれども、誇りを持たない故にかく恥も何ら持たないといういびつな社会を作り上げてしまった。それで楽しいという人も大勢いるだろうが、蔓延するスノビズムの中では息苦しくて生きていけないという人々もいる。
 ファッションとレジャーとセックス以外には話題を持たない輩の中にあって嫌悪感に立ちすくみ、堪らずに声を上げれば「ダサイ」だの「何マジになってんの?」だのと揶揄をされ、そのストレスに日々押しつぶされそうになっている人々・・・。
 あのオバカさん教に参加した者の多くはそうした真面目人間たちであり、「君たちが疎外感に苛まれるのは間違っている。正されるべきは世の中の方なのだ」という、見方によってはごく真っ当な価値観を提示してくれた共同体の居心地の良さに彼らはすがったのだった。
 裁判で一部の信者が見せるファナチックな薄ら笑いは、だから、「お前たちスノッブ共が後生大事に言う『社会』なるものがそんなに大したものか?」という歪んだお子様的優越感の表出なのであろう。



 再々書いているように、あたしも現代日本社会とそこに暮らす人々には怖気をふるっているし、だからオウム信者らの抱いた寂しさや怒りには十分共感できるのだ。しかし一応は大人のオツムを持っているので、自らが他でもないこの社会によって生かされていること、そしてこんな社会でもそれを愛おしみ、日々それなりに幸いを感じて生きる人々が大勢いるということも分かっている。
 信者らに根本的に欠けているのはその僅かな想像力であり、それを持たないが故に「オバカさん」な「お子様」教なのである。そしてそれは、「人は分かり合える」だのと脳天気な御題目を掲げながら、ひとたびキレるや自分を抑圧した者に容赦なく機関砲をぶっ放して溜飲を下げる、白痴じみた「ニュータイプ」たちのイメージにそのまま当てはまる。
 その意味で彼らオウム信者たちはまさに(影響を受けた、受けないに寄らず)富野氏の子らであり、その鬱積した思いが他でもないこの日本の胎内から生み出されたことを、氏は「オルファン出現」という舞台に象徴させたのであった。



 だから劇中巨大な敵として立ちふさがるのが「アメリカ」であるというのは、単に物語としてそうなっているのではなく、富野氏がオルファンの暗喩するところを補強するべく、それを巡って争う勢力にもチマチマと気を配った結果だろう。
 (あたしは与しかねるが)アメリカこそは戦後この日本をタワケ国家へと貶めた張本人であるとも言え、故にオウム教がサターンとして神敵視していたことは有名だからだ。
 加えて富野氏は、これでは作品が民族主義的主張をしていると誤解されかねないことを懸念したのか、中国に代表される大陸アジアの右顧左眄する愚かさも同時に描いて、オルファンの正体をより明確にするよう作業している。



 また氏は本作において、おそらくは「エヴァンゲリオン」からの影響も大だったと思われるが、異なるキャラに同じ一つのものを暗喩させたり、逆に同一のキャラに複数のものを暗喩させたりして、いわゆる複層構造的な表現を行っている。
 例えばオルファンと共に生きようとする自称エリート集団「リクレイマー」がオウム教団のカリカチュアであることは自明であり、そこから離反した主人公伊佐未勇はさしずめ脱退信徒ということになろうが、似た立場と境遇を、富野氏は主人公メカであるブレンパワードら(オルファンには与しないアンチボディ群。雌であるらしい)にも負わせているのだ。
 彼らも元々はオルファンによって使役されていたわけだが、その後離反し、現在ではオルファンに対して強い憎しみを抱いている。
 仔細は不明だが、「騙され、いいように利用されたあげくに見捨てられた」というのがその理由だそうで、それ故彼らは時に操縦者の意志を無視してオルファンに自爆特攻を仕掛けさえする。それらの描写は、言うまでもなく、自らの刑事罰を覚悟した上でオウム教団の犯罪を暴露しようとする一部の脱退転向信徒をあからさまに想起させずにはいない。
 つまりパイロットである伊佐未勇とブレンパワードは同じ疎外感や挫折感を共有し合う関係にあり、彼ら同士に対話をさせることによって、彼ら自身の価値観を相対化し合ったり補強し合ったりという演出がなされている。視聴者にとっては彼らが何のメタファーであるのかをより良く理解できることとなり、それが作劇上効果的であったかはひとまず置くとしても、なかなか凝った演出ではある。



 さてこれほどに富野氏が気合いを入れて作品世界をでっち上げた本作は、果たしてエンタテイメントとしては成立しているか?
 ハッキリ言って、本作を見るくらいなら寝ていた方がお肌に良いだけマシだとあたしなんかは思ってしまう。要するに退屈すぎて見ていられないのである。
 ロボットアクションのカタルシスなどはハナから無く、キャラはみんなクルクルパーで、ドラマは陳腐の骨頂であくびが出るし、セリフはコテコテのウザイ富野節。こんなモノを楽しめと言う方が土台無茶であります。
 主役メカたるブレンパワードも、富野氏やデザインの永野護氏がそれなりに新しい魅力を盛り込もうと心を砕いているのは認めるが、例えばエヴァのようにこのジャンル全体に再考を迫るようなインパクトはもとより持ち合わせていない。作画もヘボヘボだし、「ロボットアニメ」としてのブレンパワードは完全に落第点であると言ってしまおう。



 ただ一点、上で長々と述べたこの作品の暗喩するもの、端的には「オウム事件」について富野氏がどういう評価を下すのかということがラスト近くまでボカされているため、そのことへの興味が本作を視聴させ続ける唯一の牽引力となっている。逆に言うと、それがなかったらあたしなんか早々に見るのを止めていただろう。



 最終的に、氏はオウムをどう総括したか。
 案の定、
 「私の子どもたちがまさに『子供』であるということ故に色々と愚かしいことをしでかしたようだが、その動機(オルファン)までが一顧だにされずに踏みにじられるというのでは寂しすぎる。そこから汲めるものだってあるはずじゃん!いや、動機自体は正しく尊いじゃん!」
 というのが氏の答えであった。主張するところは分からなくもないが、他でもない富野氏がそれを言ってしまっては、呆れ返った開き直りと言われても仕方あるまい。こういう大人子供になっちゃってはイケマセンよ、お子様諸君。



 あたしはそもそも作品によって何かを伝えるべきだなどとは思っていないし、よし伝えるとしてもその内容は作者の独りよがりで全然オッケーだと思っている。だがしかし、あの事件に衝撃を受け、そこに幾ばくかでも自らが責めを負うべき要素を感じ取ったのだとしたら、道に迷った少年少女にもうちとマシなメッセージを送れないものか。
 ブレンパワードのことを「ちょうど犬程度の知能」を有している「ロボット」と皮肉を込めて設定していることは、富野氏が信者らの愚かしさを理性では正しく看破していることの現れだろう。しかしその上で氏の本質はオルファンに与してしまい、結果本作が自らの立場を補強するための宣伝的作品になってしまっているのには苦笑させられる。
 およそここから読みとれるメッセージがあるとすれば、
 「愚かさをいかに指弾されようとも、ピュアであり続ける勇気を持ちましょう。せめて僕だけは、共にピュアなまま銀河旅行に出てあげるから」
 というヤケクソじみたアジだけである。


 ピュアであり続けることと現実と折り合ってゆくことは、決して相容れないことではないと思うけどなあ。
 現代の子どもたちに求められるべきは、他者のありのままをまず認め、どうすればそれと折り合っていけるのかを互いに模索出来る精神の強靱さだろう。世が汚いモノで満ちているというなら、何故そうなってしまうのか、どうしたらそれを乗り越えられるのかを、目を背けず泥にまみれても探求しようとする逞しさだろう。
 しかるに氏は、すねて泣きながら、
 「あたしは悪くないモン!綺麗な身体のまま遠いところへ行っちゃうんだモン!」
 という小児的逃避を是として発信してしまう。それは富野由悠季という愚かしい大人子供を拡大再生産するということであり、何のことはない、氏は愚にも付かないニュータイプ節を無反省なまま今一度うなっただけのことであった。



 今や富野氏は作家としての能力を全く失い、その影響力が問題にならないレベルであることから、「ブレンパワード」が実際に害悪をまき散らすという憂いは無いに等しいが、「何か間違ってしまったのか反省したい」などという思わせぶりを言いつつそれを果たす気のさらさら無い氏の欺瞞と怠慢はやはり責めを負うべきだろう。
 売るモノがないのなら店をたためばいいのであって、しかし何か売らなければ食べていけないと生臭いことを言うのなら、図々しく「理想」などを語るべきではあるまい。まして自らの小児性からも羽ばたけない者が子どもたちを銀河へ導こうなどは笑止千万である。さらば富野由悠季。

ブレンパワード

ストーリー

演出

作画

メカニック描写

エポック度

総合評価

 ★総合評価基準=A・超良い、B・良い、C・普通、D・悪い、E・死んで欲しい

ちなみに絶対的な評価ではなく、その当時のアニメ界における相対的な評価です。



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