伝説巨神イデオン(TV版)
「ガンダム」と双璧をなす富野ロボットアニメシリーズの最高峰であり、また富野氏がエンターテナーとしての節度も良心も完全にかなぐり捨てた最初の作品である。 「ザンボット3」では、その悲劇的なドラマに脳天気なオポチュミズムというリボンをかける余裕が残っていた氏だが、「ガンダム」のニュータイプ論で人類を見捨てたことによって吹っ切れたのか、はたまた面倒臭くなったのか、ここではもはや延々と絶望節を謳うことだけが目的と化していて、作品のパッケージングにすら無関心になっているように見える。(打ち切り騒ぎ等の外的要因とは関係なく) 本作よりのち、「富野アニメ」は悪い意味でのデカダン期へ急速に落ち込んでゆき、二度と輝きを取り戻すことはなくなるのである。 何度か書いていることだが、恐らく氏は、元々バンドックに与するポジションに自らを置いていたのだろう。つまり、何が気に入らないのか知らないが、「人間なんか大嫌いだ、みんな滅びてしまえ!」とジタバタ騒いでいる幼児、それが人間、富野喜幸氏だったのである。 そう考えると、一見ゴチャゴチャしている本作の構成やキャラ配置の意味が分かりやすくなる。 群像劇たる本作の主人公は、実はコスモではなく、無論ベスでもカララでもない。 本作の主役とは、無限力の根元である「イデオン(あるいはイデ)」それ自体だ。そしてそのイデオンとは、カリカチュアライズされた富野氏の心象そのものなのである。 イデは「純粋な防衛本能」に共鳴してその力をふるうらしいが、それは 「オレは傷つきたくないだけなのに、どうしてみんなで虐めるの?バカバカ、もうぶっちゃうから!」 という監督の心の声を表現したものであろう。(そのもう一方の象徴としてパイパー・ルウがいることは、富野氏の自虐的アイロニーか?) 安彦良和氏が、 「傷つきやすい人なので、富野さんとはケンカをしたくない」 と語ったことからも、富野氏が相当にナイーブな人物だったことは分かるが、想像するに、氏を「傷つけ」ていたものは、日常的な人間関係からくるストレスだけではなく、この社会(現代日本)がこの上なく破廉恥で醜悪で救いがないという、「現実」そのものだったのではないか。 その絶望感は、このあたしにも共有出来る。しかしだからといって、やみくもにイデオンソードを振り回して溜飲を下げるというのでは、幼稚園児と変わらない。もっと言えば、現代社会が怪しからんからサリンを撒いて浄化してやるという小汚いテロ集団と同レベルである。 彼らは未熟な自我の肥大化をもてあましている「お子様」なのだ。だから「社会」とはそもそも「他者」が寄り集まって構成していることや、「他者」とは即ち自分とは違う「異者」であるという簡単な現実が理解できない。(あるいは理解しようとしない) そんな幼児の嘆息や無い物ねだりを聞かされるのは迷惑至極であり、それ故あたしは過去、「イデオン」をそのテーマ性においては一顧だにする必要のない愚作と断じてきた。 ではそんな作品を、あたしはかたや何故「富野ロボットアニメの最高峰」とまで評価しているのか。 それは本作が、純粋にロボットアクションエンタテイメントとして見た場合、やはり超一級の傑作であることが間違いないからだ。 正直、「イデオン」の戦闘シーンに拮抗しうる斬新なビジュアルショックは、「ヤマト」、「ガンダム」くらいしか思いつかないほどであり、絵的なエポックさにおいてはそれらを凌駕しているとすら言える。 頭部ディスプレイに走査線がボウッと浮かび始めるイデオン起動時の興奮! 100メートルを超える機動兵器同士が市街で組み合う、視界が幻惑されるようなワンダー画面! ミサイル一斉発射シーンのしびれちゃうカタルシス! 同心円状の爆光を無数に叩き付ける、画期的な戦闘空間描写!(後に多くの作品で使われる類型テクと化し、宮崎駿氏にこっぴどく揶揄されたが) 板野サーカスの真骨頂とも言うべき、アディゴとそれを追うミサイルの偏執的(失礼)アクロバット機動! 人の頭上遙かを悠然と踏み越えてゆくジグ・マック!圧倒的なパワーで猛悪なキャラをデモるガンガ・ルブ!惑星をバターのように両断するイデオンソード!天よりきたるジェノサイドの槍、準光速ミサイル!etc、etc!・・・・。 それら圧倒的なイメージの奔流は、「機動戦士ガンダム」とは全く趣を異にする新しいものだった。 大人気だった前作の表現法に拘泥せず、新境地を切り開こうとした富野監督の意気込みは高く評価されるべきであり、そしてその画面作りが概ね成功したことは、氏が映像作家としていかに脂の乗りきった全盛期にあったかを示している。 実際、「イデオン」で試されたコンバットシーンのビジュアル表現は、その多くが後のロボットアニメのスタンダードになってしまったほどだ。以降のロボットアニメは、その戦闘シーンのどこかに、ほぼ例外なく「イデオン」のエッセンスを取り入れている。あたしが「大エポック作」と評した「マクロス」だって、戦闘描写はその全てが「イデオン」の借り物なのである。 本作はその出現のタイミングから、アニメシーンが社会現象として認識された、そのムーブメントの頂点に存在した(当時の「アニメック」誌のアオリ、「82年夏、アニメ黄金時代」は、まさにバブリーな状況そのものに脳がマヒしていて物悲しく、また懐かしい)が、上記のように、その文芸的なテーマにおいては何ら汲むべきモノのない愚作であった。 しかし「絵」としてのロボットアニメがたどり着いた進化の究極として、画面の一種官能的な興奮と共に、「イデオン」の名は決して忘れ去られることはないであろう。 |
伝説巨神イデオン(テレビ版) |
|
ストーリー |
B |
演出 |
B |
作画 |
C |
メカニック描写 |
A |
エポック度 |
ウルトラA |
総合評価 |
A |
★総合評価基準=A・超良い、B・良い、C・普通、D・悪い、E・死んで欲しい ちなみに絶対的な評価ではなく、その当時のアニメ界における相対的な評価です。 |