機動戦士ガンダム・逆襲のシャア

 「ザンボット3」より連綿と続く「富野節」ロボットアニメが、最後の光芒(失礼)を放ったとでも言うべき力作である。



 もっともその核たる「富野節」は相変わらずの空疎な戯言だし、キャラクターは全員クルクルパー。特にニュータイプや強化人間はお友達になりたくない奴らばっかりで、それは「人間(もっと言えば日本人)」というものに対する富野氏の嫌悪が、もはやマキシマムに達してしまったことを如実に物語っている。
 富野氏は本作をシャアに与することで語っており、「人類に絶望もしちゃいない!」というアムロのセリフは、明らかにコマーシャリズムに妥協したアリバイ的反語である。
 つまり本作において氏は、「汚らわしい世の中(日本)をリセットしたい」というオウム的スタンスを明確にしたわけであり、それは後の「ブレンパワード」へと続く氏の基本姿勢となるが、そんな幼児じみた無い物ねだりを聞かされる観客こそイイ迷惑ではあろう。



 しかしそうした欠点に目をつむる事は出来ないにせよ、生き物同士が全ての意地をかけて「殺し合う」様が、大変な迫力で活写されていることには、誰も異を唱えられまい。
 何より本作には、久々の劇場用エンタテイメントに作家生命を賭けて臨む、富野監督の並々ならぬ意気込みと熱意が感じられる。全編にみなぎる悲愴な決戦ムードは、その監督の心意気が、まるでフィルムとキャラクターにのりうつったかのようだ。



 メカニック描写においても、本作は(初代ガンダムのカタルシスとは比べるべくもないが)なかなかに健闘していて、数々の名シーンを生んでいる。何より主人公メカたるニューガンダムが、実に強力な最新兵器として描かれているのが嬉しい。
 ニューガンダムの初陣は、敵部隊に対する主砲の狙撃のみであって、MS同士の格闘戦は起こらない。しかしその狙撃は、大遠距離からのものにもかかわらず「ズッドォーン!」という力強い光条で、「Zガンダム」などで見られる「プチュー」なんて情けないエフェクトではない。(敵パイロット・レズンは、あまりの迫力に艦砲射撃と誤認する!)ガンダムの主砲はこうでなくっちゃ!



 技術的遅れによって、ネオジオン製ファンネルのように小型化できないだけかと思われていたフィンファンネルも、事実は全く逆で、自機の周囲に三角錐状のアイフィールドを形成し、敵のビーム砲を完全にシャッターするという驚きの機能を披露する!(ガンダム世界と相容れるかはひとまず置くとして)まさに攻守とも最強のガンダムたる貫禄十分である。カッコイイぞニューガンダム!



 そのニューガンダムが、墜落するアクシズ上でシャアのサザビーと激突するクライマックスは、富野氏がわずかに燃え残った作家生命を全放出したかのような大迫力!
 あたしはかねて、「モビルスーツは刹那的決戦兵器である」と主張しているが、それはファーストガンダムの第6話に代表されるように、「銃の弾が尽きたら剣で切り結び、それも折れたら拳でぶん殴り合う、フィジカルな迫力を持ったメカ」というイメージがあるからだ。
 サザビーとニューガンダムは、そうしたモビルスーツの本分をようやく思い出したかのように、あらゆる獲物を繰り出して打ち込み合い、最後は狂気じみた肉弾戦へとなだれ込む!互いのマニュピュレーターも砕けよと殴りかかる、二台の超兵器の迫力を見よ!
 富野氏はここで、「Z」や「ZZ」で解体してしまったモビルスーツというメカニズムのアイデンティティを、アムロとシャアの相克に投影することで再生して見せたのである。やれば出来るじゃないか、イカスぞ総監督!



 その他、劇場作品ならではの細かなこだわりも楽しい。
 ラストで駆け付けるコロニー駐屯軍の主力機がマイナーなGM3であるとか、とりたてて強力なニュータイプではないシャアが、核ミサイルをギュネイのようには巧みに狙撃できないとか、またそのシャアが、かつて同志であったブライトの指揮能力を買っていて、「やるなブライト・・・」と呟くシーンなど、シリーズのファンに対するちょっとしたサービスとも言える味付けが随所になされていて、思わずニヤリとさせられる。



 と言って、それに拘泥するわけでもなく、一本の劇場用アニメとしてカチッとまとまっているところが、本作の一番の手柄なのですけどね。
 巷間色々と言われるあの意味不明のラストも、あたしはあれで良いと思う。あれは恐らく、富野氏の物書きとしての意地なのだ。
 「人類の未来を信じる、人々の心」が、アクシズの進路を変更したということなのだろうが、そも人類の未来など信じていない自分が、そんな馬鹿馬鹿しいことを仕事の上では描かなければならない・・・・そんなジレンマが、富野氏をして、あのようにボカした形でのラストシーンを作らせたのではなかろうか。「こんな大ウソは描けねぇよ」と。
 監督の心中では、だから謎の光などは発生せず、アムロも「現実」という大気圏になすすべなく焼殺されてしまったのではないか。
 アクシズはシャアの懊悩と共に、確実に地球へと落着したのである。

 

 本作は、小汚い商業主義によって心ならずもサーガ化してしまったガンダムワールドに、生みの親が自ら引導を渡すべく取り組んだ入魂作として、文芸、ビジュアル両面から再評価されても良いと思う。



 追記・それにしても、ほめておいて何だけど、あたしは「フィンファンネル」なる兵器に、どうしても割り切れない思いがある。何だかアムロの使う兵器としては相応しくないような気がするのだ。
 サイコミュ兵器って、ダンパインの「ハイパー化」同様、主人公にとっては禁じ手じゃないだろうか。
 一作目でアムロは、「ニュータイプは戦争の道具ではない」という理想主義を、ガンダムで戦い抜くことによって体現したと思っていたのに・・・。

機動戦士ガンダム・逆襲のシャア

ストーリー

演出

作画

メカニック描写

エポック度

総合評価

 ★総合評価基準=A・超良い、B・良い、C・普通、D・悪い、E・死んで欲しい

ちなみに絶対的な評価ではなく、その当時のアニメ界における相対的な評価です。



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