戦闘メカ ザブングル

 富野喜幸氏が富野由悠季へと改名して発表した最初の作品である。だからというわけでもなかろうが、富野ロボットアニメとしては極めてドラスチックな転換点となっている。
 本作完結以降、富野氏は作品をエンタテイメントとして組み立てる努力すら次第に放棄していく。つまり「ザブングル」は富野ロボットアニメが本質的にはここで滅んだという墓碑銘的作品なんだけど、世間的にはそこそこの良作というだけで簡単に片づけられてる感がなきにしもあらず。本稿は、そこを出来るだけ明快に指摘してみようとする試みである。



 さて「ザブングル」はその企画当初、富野氏ではなくて別のスタッフが手がけるはずだった作品だそうだ。言われてみれば、本作の泥臭い世界設定は、やたらとエエカッコしいの富野氏のセンスとはどこかしっくりこないように思える。
 最終的に氏が本作をプロデュースすることとなった真の事情は知る由もないが(スポンサーサイドからの要請があったのかもしれないですね)、当時の富野アニメファンの中には、そのことを素直に歓迎する向きと共に、「いきなり湧いて出たそんな作品にかまけるのは止めてほしい」というネガティブな受け止め方も少なからず存在していたように記憶する。
 それも無理からぬところで、本作が作られた82年当時、富野氏はプロデューサーとして社会的に最も陽が当たっていた時代、俗に言うと超売れっ子だったわけで、故に劇場版の「めぐりあい宇宙」だとか「イデオン発動編」なんかのビッグプロジェクトを掛け持ちしていた時期でもあり、その過密なスケジュールへ更にTV用新シリーズなんかを割り込ませる余裕はとても無いように思えたのだ。



 濫作は当然にそれぞれの作品の質的低下を招く。この才能豊かなプロデューサーを、既にバブルの感があった第二次アニメブームの中、際限のないマスプロ要求によって徒(いたずら)につぶしたくない。そんな皮膚感覚としての懸念がファンの中に獏として生じたのはむしろ当然で、何を隠そうこのあたしも、富野氏の「ザブングル」制作発表を何かそぞろ不安な気分で聞いた一人であった。



 「ザブングル」第一話の放映日、あたしと同じようにハラハラした心持ちでTVの前に座ったファンは大勢いたことと思う。だがしかるに、そうしたファンの多くは、そしてもちろんあたしも、その第一話の内容には目を見張らされることとなる。



 素晴らしい仕上がりであった。



 たった15分のドラマだけで世界観を過不足無く視聴者に伝えてしまう、いかにも富野氏らしい、凝り凝りの、しかしコンパクトな冒頭演出!
 躍動感あふれるキャラのパフォーマンス!
 鋼と鋼が容赦なくぶつかり合い、つぶし合うロボットアクションのカタルシス!
 ヒーローメカのデザインがその世界の中では異端に過ぎるという不合理を逆手に取り、異端であるが故にヒーローなのだという合理にすり替える(ジロンがザブングルをして、「あの手を見たろ?人間ソックリだ!」と驚嘆するシーン)あたり、まさに富野シニカル演出の真骨頂とも言うべきカッコ良さ!
 そして蒼い閃光が縦横に飛び、跳ね、撃ちまくるオープニングの痛快さはどうだ。両手をサーフェス様に広げて地表を滑走していくザブングルの勇姿には、ロボアニファンならずとも胸躍らずにはいられまい。スゴイ!スゴイよザブングル!!



 あたしはその作品世界に酔い、同時に何か打ちのめされたような気分にもなった。優れた作家の脂が乗りきっているとき、スケジュールのタイトさなど何のくびきにもならないのかと思った。つまりは富野氏の才能に嫉妬したわけだ。
 無論のこと、氏がその生まれ持ったセンスだけでチョイチョイと仕事をこなしたなどと思ったのではない。「ザブングル」第一話には富野氏が散々フィルムと格闘した血の跡が見えるような気がしたし、しかし同時に、その格闘をも楽しみとしてしまう圧倒的な作家の「ノリ」が感じ取れた。
 それは、それまでお世辞にも恵まれた環境で仕事をしてきたとは言えない氏が、初めてそれなりに充実した戦力(絶頂期にあった湖川氏の作画と、それに応え、支えた2スタの能力、サンライズ作品としては段違いに上質なモノを提供していた池田氏の美術など)を与えられ、大いなる喜びと共に溌剌と作業に当たった結果だったのだろう。



 とまれ、「ザブングル」の活劇としての高いテンションは番組中盤まで見事に維持され、アニメファンを魅了し続けた。
 中盤までの何が面白いと言って、その爆走する暴れ牛のような「ブッ壊し、突き進む」感覚に尽きよう。
 細かい事情はともかく、何某かのジャマをしようとチョロチョロする敵役たちが引きも切らないストーリーにあって、ジロンら主人公面々は、彼らをバコスコ問答無用で粉砕し、前へと進んでいく。その「どけやゴルァ!!」な展開の連続が実に痛快なのだ。



 あの勢いを保ったまま「ザブングル」がシリーズ全44話を終えることが出来れば、あたしたちは素晴らしい完成度を持ったロボットアニメの傑作を手中に出来たであろう。それは確かだ。しかるに。



 物語中盤、端的にはザブングルからウォーカーギャリアへと主役機交代が終わった直後から、作品のテンションは急速に落ち込み、ついには輝きを取り戻すことなく竜頭蛇尾の完結を見る。
 前半のキモであった問答無用のブチ壊し感覚は全く失われ、新たな秩序構築という矮小な目的のためにチマチマしたイニシアチブ争いを続ける主人公らを、あたしたちは呆然として見つめるしかなかった。
 まさに大ゴケと言うより他はない。「ガンダム」、「イデオン」で味わった以上の失望を、よりにもよって「ザブングル」で味合わされることになろうとは!



 なにゆえ蒼い閃光は失速したのか。
 爾来アニメ誌等では様々に言われてきたが、当然ながら真の所は想像するしかない。しかし当時視聴していたあたしの皮膚感覚から言わせていただくと、単純に、富野氏の意欲だの緊張感だのといったものが著しく減退してしまったからではないかという気がしてならない。
 つまり具体的な演出上の瑕疵はともかく、そもそも監督からはこの仕事をキチンと続けようという気が失せてしまったのではないかと思う。
 あまりに雑で強引に過ぎる見立てかもしれない。しかし仮にそれが真実だったとすれば、「ザブングル」に関する様々な疑問が綺麗に説明できてしまうのだ。



 そも富野氏が「ザブングル」という作品で行おうとしたことは何か。



 当時から言われていたことに、「『ザブングル』はパターン破りのエンタテイメントだ」というのがある。それは確かにそうだ。
 まん丸顔に団子鼻のブサイクヒーローや、第1話にいきなり2台が登場する主人公メカ。のみならずそのメカ(名称がまんま番組タイトルでもあるのに!)がシリーズ半ばで大破して新型機に主役の座を明け渡し、しかもその新型機はデブで平べったくて亀の甲状のパーツを背負ってて色までガメラ色という、およそヒーローらしくないデザイン。さらにあるまいことか、主人公らの「家」たる陸上戦艦は、敵側にも同型艦が複数登場する!
 かよう「ザブングル」は全てが型破りであった。どうしてそういう内容になったのか。
 パターン破りは単純に面白いし、それ自体が作品の個性化に繋がるから?そうかもしれない。しかし当然にそれだけでもない。



 富野氏はその演出によって、「ロボットアニメ」というエンタテイメントのジャンル自体を本気で貶め、嗤おうとしていたのだ。まさにそのためのパターン破りなのである。
 つまり「ザブングル」は、ロボットアニメを否定するために敢えて面白いロボットアニメを作るという、それ自体はまさに非凡と言って良い発想の産物なのだ。



 パターンを破るということは、逆に、パターンが存在するということを広く認知させる作業だ。だから氏は一連のパターン破りによって、
 「主役ロボットはいつもスマートなのが一台だけ出てきますよね。しかもそれが最終回まで壊れずに出突っ張りですよね。主役のパイロットは大抵凛とした男前ですね。それが毎回毎回カッコよく敵を屠ってノホホンとしてますよね」
 などというパターンの存在を視聴者に知らしめる。そして同時にこう問いかけるのだ。
 「これらパターンの不合理さ、馬鹿馬鹿しさはどうです。こんなものは無くたって良い。事実パターンを使わなくてもザブングルは作れたじゃないか。いやそれよりも、そもそもそんな馬鹿馬鹿しいパターンに呪縛されている『ロボットアニメ』なんてジャンルを、みんなどうして見たがるのか。こっちはもうそんなもの作りたくないのだ。視聴者もいい加減、もっと高尚なモノを求めるようになってくれ!」



 そうまで苛立ちながら、では富野氏がどんなものを真にはプロデュースしたかったのかは、端的に言えばカルピス劇場のような名作アニメ路線に尽きよう。
 これはあたしの師である米金敏三博士が随分早くから看破されていたことで、最初聞かされたときには「う〜ん、そうかなあ?」と半信半疑だったけれど、その後の富野氏の作風や発言を点検するに、まさに真理であると納得せざるを得ない。さすがは師匠、恐るべき慧眼である。
 考えてみれば、富野氏が「アルプスの少女ハイジ」や「赤毛のアン」の演出を手伝っていたのは有名だし(アンなんか「ガンダム」制作と同時期だ。働き者だなあ)、ザブングル以降は特に顕著だが、作品の美術世界を名作もののエッセンスでこれ見よがしに塗り固めているのも、自己の関心がどちらへ向いているのかを宣伝するためだったと解釈すれば得心が行く。氏の心は、既にロボットアニメから急速に遠ざかりつつあったのだ。
 リアルロボットというジャンル自体を創造し、その道の第一人者と持ち上げられながら、しかし氏にとってそんなものは男子一生の仕事とは思えなかったのかもしれない。


 
 当時の富野氏は、
 「ザブングルは、2スタ(日本サンライズ第2制作スタジオ)のスタッフにアニメーションを作る楽しさを判ってもらうためにやった」
 「(コナンの真似をすることについて)上手くならないのに真似をしたりするのはイミテーション以下だから止めた方が良いと言われるが、そういうことすらやっていなかったのが日本サンライズという会社の状況」
 などと発言していて、それはつまり、「ウチは作画能力がないからロボットアニメしか作れない」と公言してはばからなかったサンライズ、またその姿勢に疑問も覚えず日々の仕事をこなしていたスタッフに対し、志の低さを詰る必死の声であった。
 そして毎度「意見開陳は最終的には作品で行う」がモットーの氏が、まさにそのために演出したのが「ザブングル」だったのだ。
 ロボットアニメはくだらない。馬鹿馬鹿しい。作りたくない。作らせないでくれ。
 それがザブングルの真のテーマであった。
 視聴者が見たがらなければ、サンライズもロボットアニメだけを作り続けるわけにはいかない。富野氏は、そのアピールが下卑た視聴者たちの意識を少しでもより良く変え、それがひいては、日本サンライズという自らの職場環境の意識を改革してくれることを期待したのである。



 こう考えてくれば、ザブングル後半において、氏の本作に注ぐ情熱が霧散してしまったことにも説明が付く。
 氏の意欲を削いだ原因は、まず端的にはネタ枯れであろう。ウォーカーギャリアへの主役メカ交代劇によって、氏は貶めるべきロボットアニメのパターンを一通り使い果たしてしまい、それまでの作劇フォーマットではザブングルを作り続けられなくなったのである。
 前記の通り、ザブングルのテーマ(ロボットアニメの否定)はそのままエンタテイメントとしての本体部分であるから、そのネタのやりくりがつかなくなってはやる気が失せてしまうのも道理であろう。



 同時に氏は、本作が、氏の意図したような効果を全く発揮していないことにも気が付いたのに相違ない。
 何しろザブングルは大人気で、ファン達は氏をしてやっぱりロボットアニメの天才だともてはやしている。視聴者の意識を変えるどころか、真のメッセージはまるで汲み取られず、パターン破りが面白いとそのままに受け入れられてしまったのだ。これではサンライズが自己のスタンスをチェックし直す道理も必要もない。



 オレは何というチグハグなことをしているのか。
 そんな空しさが富野氏の胸を去来したのかもしれず、では目的のためにはどうすれば良いのかという新たな方法論、つまりは新作(この場合はダンバイン)の文芸、演出をどう工夫するかということへ、氏の関心は一気に向いてしまう。そんなクリエーターにもはや面白いモノが作れるわけもない。


 
 敵(ロボットアニメ)を攻撃する材料が尽き、目的完遂の挫折が確信された時点で、富野氏は戦いを放棄した。最終回を待つまでもなく、ザブングルはとっくに「終わって」いたのだ。
 後半あたしたちが見せられていたのは、「開始当初の痛快さを失った番組」ですらない。残った話数を取りあえず埋めておく、敗戦処理の手続き書類に過ぎなかったのである。



 番組終了と前後して、氏は、
 「これまでの作品は物語の中での闘争だけど、ザブングルは作り手の闘争だったと言えるのではないか」
 と発言している。まさに氏にとってはその通りだったであろう。自分を支持し、応援してくれた視聴者、そして自らの職場に対し、初めてあからさまに牙を剥いて見せた作品だったからだ。
 それは確かに勇気が必要な闘争だったかもしれないし、また氏が本作で主張しようとしたことにも、あたしは賛同こそ出来ないが、心情的に理解することは出来る。



 しかしギリギリのところでエンタテイメントとしての体裁を保った「ザブングル」はともかく、その後の先鋭化していくばかりのアジ作品群・・・「ダンバイン」だの「Z」だのには、そんなことよりまず第一に娯楽作品が備えていなければならない要件、つまり「見てくれる人を楽しませよう」という、クリエーターとしての当たり前の誠意がスッポリと欠落している。冒頭、「富野ロボットアニメが本質的にはここで滅んだ」と書いた理由はそこにあるのだ。



 青い鳥を探す富野氏の幼児じみた旅は未だに続いているが、それはまさに「ザブングル」から始まったことを、あたしたちロボアニファンは知っておくべきである。
 それを銘じたときに、本作は、ポジティブな面にせよネガティブな面にせよ、その本質部分を初めて正しく表明し、富野ロボットアニメ史の深淵から立ち現れるだろう。



 追記・仰々しく「文化」を言いながら、手がけるのは子供だましの「人形劇」というエルチのキャラクターは、もしかして毎度富野氏一流の自虐であろうか?イイじゃん人形劇(ロボットアニメ)だってさあ。超一流の人形劇作家になればさあ。



 追記2・最終回、アイアンギアーにイノセントドームを踏みつぶさせたのは、富野氏のせめてもの意地・・・と言うよりは負け惜しみの捨て台詞だったかもしれないな。元来触れたり、ましてや逆らったりがタブーのもの、つまりは視聴者やサンライズに対し、勝てはしなかったけれども一矢は報いたと暗に宣言しているともとれるからだ。

戦闘メカ ザブングル

ストーリー

演出

作画

メカニック描写

エポック度

総合評価

 ★総合評価基準=A・超良い、B・良い、C・普通、D・悪い、E・死んで欲しい

ちなみに絶対的な評価ではなく、その当時のアニメ界における相対的な評価です。



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