No.8

ザ・ビッグオー

 サンライズの話題作「ザ・ビッグオー」をWOWOWで録りためておいたのだが、先日ようやく視聴した。いや〜、シドイ作品。もう一度見ろって言われたら、あたしは発狂しちゃうぜ。


 この作品、あたしがここで散々やっつけている小中千昭氏のシリーズ構成なのだが、氏のしょうもないセンスの集大成みたいな仕上がりだなあ。ひとことで言って、「ゴミ」・・・なんて言ったらゴミに失礼だからゴミに謝っちゃうが、だけどあたしも、この作家の創作物がくだらんつまらん産廃だなどとあげつらっていないで、イヤならハナから見なければいいのよね。そうだわ、ウン、次からはそうしよう。


 さて
「ビッグオー」である。


 本作は、現世から隔絶された架空の未来社会・・・言ってみれば映画版バットマンのような世界で起こる様々なクライム(犯罪)に、無敵のスーパーロボットを駆って立ち向かう、おつむの弱いヒーローを描いている。むろんクライムというのは単なる「例え」であって、それはアイデンティティーを求めてもがきさまよう、人の悲しみそのものを暗喩している。まあそこまでは良しとしましょう。


 見ていてやりきれないのは、この架空世界にアリバイを与える住人たち・・・つまり登場キャラクターたちに、何らの生々しい息づかいも感じられないことだ。「魔法使いTai」で散々書いた、小中氏の、「マンガとアニメにしか範を取れない、頭でっかちの子供的演出」が、さらに先鋭化されて垂れ流されているのだ。


 少し分かりやすく書こう。


 世の中にはいかに年が若くとも、創作に並々ならぬ才能を発揮する者がいる。例えば小学生や中学生でも、身の回りの出来事を大人顔負けの巧みな筆致で表現する子供っているものだ。あるいは豊かな感性で、おとぎの国を創出してみせる子供もいる。いわゆる天賦の才ってヤツですね。


 だけどそんな子供が、例えば酒やタバコの旨さ、性の快楽、恋に破れた(大人の)感傷などを、訳知り顔で題材に選んでみせたとしたらどうだろう。
「ガキが何を言っていやがる」と冷笑されるのがオチである。書いたものが面白ければまた別だが、そういうものこそは、体験に裏打ちされていなければ迫力を持ちようもない。


 小中氏の創作物には、常にそんな「勘違いをしているガキ」的臭いがついてまわる。「ビッグオー」は、その臭いが、もはや彼の
作家としての腐臭に近付いているとまで思わせる愚作である。


 主人公ロジャー・スミスは、常にキザに振る舞い、キザなセリフをまくし立て、キザなオチへと視聴者を導こうとする。そのこと自体はいい。しかしその「キザ」さが全て借り物であり、彼自身の内奥から発したものではないことが、視聴者には丸分かりなのである。どんな世界を構築されようが、これでは見ている方は白けてしまう。ロジャーが「人間というヤツは・・・」と独りごちるのと、次元大介が「夢ってぇのは女のことか?・・・」と呟くのとでは、その重みが、
アブラムシの鼻毛と妖星ゴラスほどに違うのである。


 さてでは、このゴミ以下の作品に、何ら視聴者に収穫であるとアピールする要素はないかというとそうでもない。それはヒロインとして主人公に影のように寄り添う
アンドロイド美少女、ミス・ドロシー嬢である。ピグマリオンコンプレックスの権化のようなこのキャラを、あの矢島晶子御大が演じているのだから、その道のオタクたちは萌えまくり必至でしょうねぇ。


 彼女は常に無表情でぶっきらぼう、無遠慮な振る舞いで主人公ロジャーをイライラさせる。それは彼女がロジャーを愛しているからであって、「相手を怒らせる」ことによってしか愛する者と関われない、機械少女の不器用な心情を表現している。そう、彼女はまさに「少女」であり、「人のネオテニー」なのだ。


 ロジャーもその彼女の本音に気付き、彼なりの方法で彼女と愛を交わそうとする。それは彼女のコンプレックスを執拗に攻撃し、その不安定な自我をストレスで押し潰そうというやり方で、つまり何のことはない、好きな相手を罵り、傷つけ、ついには泣かしてしまうという、
小学生じみた未分化な恋の形を、大の大人が演出しているのである。


 砂漠のようなこの愚作にあって、この部分のみにイキイキとした作家の息吹が感じられるのは、ここに限って、小中氏のナマの心情が吐露されているからだろう。つまり逆に言えば、氏の人としてのセンスは、小学生の段階で足踏みをしているのである。


 いやはや、作品中唯一血の通ったキャラクターがアンドロイド美少女というのは、何とも皮肉ですねえ。さあ皆さん、矢島さんの声で、小中氏に言ってあげましょう。
「あなたって最低だわ・・・」


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