No.35
フィギュア17
一体何という、いびつで不細工で不器用で舌足らずでどんくさい作品であろうか、「フィギュア17」。
大体あざといぞ、スタッフ!あんな痛々しいまでに「よい子」たちを描いて何か楽しいのか君たちは!あたしは第1話からオイオイ泣かされてしまったじゃないか!(;_;)
ああっ、こうしてテキスト書きながらもポロポロポロポロポロポロポロポロ泣けてきちゃうよ〜。うわ〜ん、フィギュア17のバカバカバカ〜!!
てわけで今回のレビューは8割5分方発狂している状態でお送りすることになりそうである。いつものあたしの怜悧で超知的で水も原子も漏らさぬ芸術的ロジックは駆使できそうもないが、たまにはこういう生っぽいエモーショナルレビューもあっていいだろう。許せ皆の衆。
さて本作は人気アニメシリーズ「ベルセルク」のスタッフが参集して作ったモノらしい(違ってたらゴメンナサイ)が、そも「ベルセルク」が大嫌いであったあたしとしては、企画発表当初から何気に反発心を持って眺めていた記憶がある。
商用衛星テレビチャンネル(スカイパーフェクTV)という新しい媒体を利用して、骨太な1時間枠の連続アニメドラマを作ろうという壮図は大いに良いと思ったが、あたしの大嫌いな今川泰宏氏やきむらひでふみ氏が企画に噛んでいたり、監督氏が番組開始前からやたらチョロチョロと自らを露出し、何やら貧乏くさいウリを吹聴して回っているのもイヤだった。
氏曰く、「面倒なテーマのない、純粋な娯楽作です」、「自分自身が面白いと思う作品作りがしたい」、「最近では珍しいオールセル作画です」だのとどうでも良いご託を並べて(失礼)いたけれど、毎度ヘソ曲がりのあたしとしては、
「へっ、何を手作りテイストぶって気取ってるのよ。それじゃ『自身が面白いと思う娯楽作をセル作画で作れば』何でも傑作になるのかしら?そも能書きの多いヤツほど無能なのよね〜。きっとベルセルク同様に辛気くさくて勿体ぶっててカタルシスの欠片もない凡作になっちゃうんだわ。フン!」
なんつってふんぞり返っていたのだった。(自分でもほんのちょっとイヤな娘かな〜とか思っている)
果たして放映が開始された作品内容は、あたしのネガティブな予想をある程度は裏付けるものであった。
転校してきたばかりの北海道の小学校で、疎外感に圧殺されそうになって暮らす気弱な少女つばさが、ふとしたことから凶悪な宇宙生物との戦いに巻き込まれ、否応なくその最前線に立つことになる、というのが本作のストーリーのあらましである。
何かチョイ「バロム1」風味の「北の国から」(意味不明)ってベタベタ感はあるものの、そのストーリー自体は本作の眼目ではないので、これくらいシンプルな方が分かりやすくって結構だろう。
問題はやはりその見せ方で、特にフィギュア17とクリーチャーとの対決シーンはあまりのヘボヘボぶりにため息が出る。
フィギュア17のフィニッシュブローはよく出崎調の止め絵になったりするのだが、その瞬間に寝ちまいそうなほどカタルシスとは無縁ったら無縁!あんなヘナチョコパンチで死んでいくクリーチャーが可哀想だよ。
いかに要素としては完全な「従」であるにせよ、せっかくアクションシーンがあるのだから、もうちと愛情とこだわりを持って演出してやったらどうなのか。アクションが「派手」に「カッコ良く」描かれていても、日常描写の静かな味わいを阻害することにはならないと思うのだが。同じ伝で、フィギュアやクリーチャーのデザインやパフォーマンスも、もうちょっとケレン味のあるものにしても良かったと思う。
実は真の見せ場たるつばさたちの生活描写は、アクションシーンに比すればはるかに良い出来だ。(実際番組後半は、アクションなんかいらないから日常だけもっと映して〜とか思いました)
しかしこちらにも問題がないではない。
あのフワ〜ンと間延びした雰囲気は「味」として評価しても良いのだが、やはりもうちょっとメリハリをつけて、テンポ良く見せるべきところは見せても良かったのではないか。そのくせ情景だとかキャラの心情の描写にはいささか舌足らずな感もあり、要するにこれは、1時間番組という尺の余裕のせいで、「切るべき所は切り、ふくらませる所はウンとふくらませる」という作家としての基本的な作業に緊張感を欠いたためかもしれない。
ところがである。
かよう視聴者に対してやや「冴えない」印象を与えてしまう本作であるが、ではだから凡作なのかと言えば、あたしにはとてもそうは思えないのである。冒頭書いたとおり、「フィギュア17」のことを考えただけでドッと涙があふれ出てしまうのだ。
正直TV版プリサミ以来の激しい衝撃を受けたと言っても良く、あたしにとってはほぼホーリーなレベルの作品にまで大化けしてしまった。何故このようにねじれた評価を出さざるを得なかったのだろう。
どうもあまり上手い言い方が見つからないのだが、要するにあたしは、この作品に「負けた」とでも言うのが近い気分であろうか。
何というか、登場人物の翔クンのセリフではないけれど、
「フィギュア17は、今のフィギュア17のままで良いと思うよ」
という気分にさせられてしまう。
上で書いた欠点は全て本当だし、どうしようもなく不器用で不細工な面がある作品だけれど、そのありのままがこの上なく愛しいのだ。
そう、翔クンとつばさちゃんが、頭上はるかをゆったりと流れていた雲や気球を飽かずに眺めたように、あたしも「フィギュア17」の全てを、そんな大らかな気分で抱きしめたいと思う。
同じ感慨を、あたしはキャラ各々やそのセリフの一つ一つに対しても抱く。
例えばヒカルというキャラだけれど、彼女は文芸的にはつばさがこう生きたいと願う理想像であり、そこにはいなくてもずっと共にあった双子であるわけだが、また同時に、我が子を案ずる亡き母の化身でもある。
我が子に無条件の愛をまず与え、しかる後にその唇を乳首からもぎ離すという、早世によって果たせなかった母の使命を、ヒカルは果たすのだ(それによって再び命を使い果たすという哀しさ!構成の妙!)。
つまり「フィギュア17」は少女が母によって二度産んでもらうというオハナシなのだが、しかしそんな小賢しい読み解きをしてしまうことが大変な失礼であると怯ませるような迫力が、本作にはたぎっている。ヒカルはあくまでもヒカルであり、何らかのメタファーではなしに個人として尊重すべきであると思わされてしまうのだ。
そう、視聴者に、ストーリーやギミックではなく、キャラやその日常をたぐいまれな立体感と共に印象づけられたことこそが、「フィギュア17」の手柄ではないのか。
少なくともあたしは、つばさちゃんとヒカルちゃんの北海道での一年間を、ホントに彼女たちのクラスで共に過ごしたような気分にさせられた。
互いが出会ったこと、授業やキャンプなどでのクラスメートとの交流、翔クンと束の間ふれあった心のときめきや、そして衝撃的な別離・・・そんなことが本当にあたしの目の前で起こったような気がするのだ。いや、気がするのではない、きっともう実際に起こったのに違いないぞ。
だってあたし、全部手に取るように覚えているんだもん。つばさちゃんたちが嬉しかったこと、哀しかったこと、寂しかったこと、幸せに感じたこと、残らず覚えていて、思い出す度にいちいち涙が出てくるんだもん。
最終回視聴時、ヒカルちゃんが至福の表情で微笑むシーンだとか、フィギュア17が白銀の原野に散滅していくシーンなど、もうあふれる涙と嗚咽でパニック寸前。
当然である。アニメのキャラではなく、現実に一緒に過ごした人たちと永遠にお別れしなければならないのだから。その後はあまりに凄まじい喪失感に、2週間近くほとんど御飯が食べられなかったほどである。
それはあたしが、視聴者に強烈な一体感を抱かせた本作の迫力の前に膝をついたということであり、だからそれを「負けた」ような気分と書いたわけだが、こんな心地よい敗北なら何度でも味わってみたいぞ!
2人と共に北海道で過ごした宝石のような一年間を、あたしは生涯決して忘れないと思う。しんどいことばかりの世の中だけど、この思い出を抱きしめれば何も怖くない。勇気が湧いてきます。
真心からありがとう。さようなら、つばさちゃん、ヒカルちゃん。
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