No.41

モンスター佃煮レビュー・5

 モンスタームービー佃煮レビューの第5弾です。今回は年末恒例のヨタゴジラと、WOWOWで見たスチャラカ洋画の抱き合わせレビューをお送りいたしますニョ。


ゴジラ×メカゴジラ


 前作の「ゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃」があんまりな
ゴミクズだったので、今回の新生メカゴジラは比較的楽しく見ることが出来ました。
 しかしこれが面白いエンタテイメントなのかというと、やっぱりあたしは、90分間使って美味しいキムチの漬け方でも習っていた方がマシだと思うのだ。
 まあ極言しちゃえば、モノがゴジラ映画である限り、今さら何本作ったって、オオッと身を乗り出したくなる痛快作なんか出てきっこないと思うんだけどね。毎年毎年、同じ古代遺跡の発掘ドキュメントを延々見せられてるようなもんだもの。去年は食堂、今年はトイレが発掘されましたって言われても、ああそうですかとしかリアクション不能だよ。



 と突き放した上であえて本作について書いてみると、巷間さんざ言われているとおり、
ちょっと見
「ゴジラ×エヴァゴジラ」だよねという印象はあるけれども、まあ今さらゴジラごときにパクられたってエヴァの方で気にもしないだろうし、パクった部分はドラマ上重要でも何でもなくて、つまり上っ面の味付けを臆面無く拝借したってだけだから、別に見ていて不快という感じはないです。
 そも本作は、ゴジラと機龍(メカゴジラ)の激突を描くことにそのエネルギーの大半を費やしており、人間ドラマとかストーリーといったものはほんの添え物である。しかしそれは、あたしが怪獣映画を撮るならそうするとずっと思ってきた流儀なので、個人的にはグレートマンセー。これでイイのよ。誰も怪獣映画でドラマに感動しようなんて思っちゃいません。特に「大怪獣総攻撃」みたいなクソドラマにはな!!



 しかし「ゴジラ×メカゴジラ」が活劇として大いに燃える出来かと言えば、冒頭書いたとおりそうではないのである。およそ血湧き肉躍るというノリには程遠い。
 何故かと考えてみるに、それは盛り込まれた色んな要素が、上手くクライマックスへと収斂していないからではないかなあ。どうも
いい加減な食材が生煮えのままバラバラに皿に盛られているって感じなのだ。



 活劇としての本作を、よりまとまりよく、かつ燃える展開に仕立てるには、例えば以下のようにすれば良いと思う。



 ・メーサー殺獣砲の存在を軸に世界観を括るというアイデアはそれで良い。ならばしかし、最高度に完成した超メーサー砲をこそ、メカゴジラの主砲に設定するべきだったろう。それでこそ世界観がシンプルに閉じる。
 水爆でも死なないゴジラを粉砕しようって砲なのだから、その威力は当然とてつもない。都市を丸ごと吹っ飛ばすようなバカヤロウ砲なのだ。その発射に際しては多くの葛藤があるだろうし、それだけで色んなドラマが作れる。(首相による発射許可が必要だったりするとカッコイイ)



 ・メカゴジラがゴジラの生体サイボーグだという設定は個人的にイヤなんだけど、前半のクライマックスをその暴走に持ってきたのは悪くない。メカゴジラによる大規模な都市破壊シーンを見せるには、それが一番合理的な演出だと思うからだ。
 しかるにその暴走シーンのテンションが低いのは問題で、これも上記のように、メカゴジラの主砲をもっとトンデモなモノに設定しておけば改善できる。つまり「暴走状態で主砲を発射されたらオシマイだ!」という緊張感がそのままドラマになる。
 反目し合っていた隊員たちが、取りあえず協力してメカゴジラ阻止に当たるという展開も、そのくらいの枷をはめてやってようやく説得力を持つだろう。
 隊員が決死でメカゴジラに取り付き、外部のアクセスパネルから主砲のマニュアルセフティを操作するような画作りも面白いかもしれない。



 ・宅間伸らアホ親子のドラマはいらない。存在ごとカットで宜しい。ドラマは釈由美子と隊員たちだけのそれに絞るべきだ。
 分けても、釈由美子の内面だけはもうちょっと丁寧にフォローしておくべし。愛されず、報われない魂を持つ者同士として、メカゴジラとの絆をキッチリ描くのだ。
 そう、メイン管制官であるヒロインにとって、メカゴジラが単なる戦場での愛機であってはならない。彼女にとってのメカゴジラは、
他者から疎まれることを運命に生まれついた兄弟、分身なのだ!
 そこを押さえておけば、クライマックスで釈由美子がメカゴジラに語りかけるシーンも、格段に説得力を増すだろう。
 彼女とメカゴジラには、もう1人の兄弟がいる。ゴジラという、忌むべき暴れ者の長兄だ。
 「あの頭に来る極道兄キを、一緒にブッ倒そうぜ!」
 釈由美子には、そんなクソ恥ずかしいセリフを熱く吐かせてしまえ!彼女はメカゴジラを操るのではない、
共闘するのだ!



 ・・・・ってな感じに盛り上げておいて、ラストはそんな彼女たちを、同志、戦友として隊員皆が迎え入れる展開にしておけば、グッと締まった映画になったと思うんだけど。

 怪獣映画を活劇と割り切って作るなら、やっぱ肝要なのはカタルシスよ。やった!スゴイぞ!カッコイイ!と快哉を叫びたくなる痛快さよ。その伝で、「ゴジラ×メカゴジラ」はまだまだ落第点なのが勿体なかったですね。「大怪獣総攻撃」がマイナス600点の怪獣映画とすれば、今回は21点くらいかな。



追記1・本作のビジュアル表現について、あたしの完全な個人的好き嫌いによる感想をオマケに記しておく。
 まずもってメカゴジラの造形がイヤだ。あんなコードだのマッスルだのがグネグネ露出しているマシンはメカゴジラじゃないやい!
 サイボーグ怪獣という設定や、アクション重視という方針が、着ぐるみをあのような造形にした事情は分かる。
でもヤなんだもん。
 メカゴジラっていうのはさ、ゲロ厚い装甲にスキなく覆われていて、とにかく固そうで怖そうで憎々しいほど強くなきゃ!
 同じ伝で、レールガンとかロケットランチャーが外付けのアタッチメントになってるのもイヤだ。そんなチマチマした女々しい装備の仕方、メカゴジラはしないね!全身の装甲をグリグリ開けて、そこからミサイルでもビームでもガシガシぶっ放せ!それでこそメカゴジラだぜ!鋼の要塞だぜ!
 ちなみにアブソリュート・ゼロ(健康器具ではない。絶対零度砲。今回の主砲)は内装式になっているが、それが納められている、あのバカでかいヒンジが丸見えのマヌケな胸部を何とかせい!お前はポピーの馬鹿オモチャか!



追記2・リデザインされたメーサー殺獣光線砲車はカッコ悪いが、冒頭の戦闘シーンはなかなか力作だったと思います。降りしきる雨を激しく蒸発させながら放たれる、光条の力強さが良い。
 これでもっと巨大感が出ていて、かつ初代メーサー光線車のように軍事作戦の緊張感が演出されていればねえ。やっぱり故本田監督はあまりに偉大です。さすがは軍隊経験者。

インビジブル



 ちょっと以前のバーホーベン映画だけれど、WOWOWでかかったから何気に見てみました。



 本作はいわゆるマッドサイエンティストものであるが、昔よくあった、ミイラみたいな年寄り博士がヨレヨレ白衣の着た切りスズメで日がな一日地下の研究室に閉じこもり、ドライアイスの煙がシューシュー沸き立つビーカーや試験管を手に、「ワシを追放した学会に復讐してやるのじゃ!ギョヘヘヘヘヘヘ!」なんてクルクルパーなセリフを棒読みにするタイプのものではない。ここ20年ばかりで新しいパターンとして定着した、近代的なマッドサイエンティスト映画(何だそりゃ)である。



 ニュータイプのマッドサイエンティストっていうのはおしなべてまだ年若く、面相もグロテスクってことはなくて、むしろキリッとしたハンサムだったりする。
 またやや反社会的なパーソナリティを持ってはいるが、別に世の中を恨んだり滅ぼそうと企んだりするわけではなく、他者ともそれなりに交渉を持つ。要するに、古典的マッドサイエンティストに比べると、格段に普通の人(笑)なのだ。



 困ってしまうのは、彼らが皆すさまじい
バカであるということだ。
 画期的な大発明をするのだから、脳味噌の何割かは確かに天才的働きをするのであろうが、それ以外の部分はもう手遅れ的なバカヤロウ。端的に言うと、若いだけあって、ほとんどセックスのことしか考えていない。チーマーの小僧と同レベルかそれ以下なんである。
 例えば「ザ・フライ(1986/米)」でジェフ・ゴールドブラムが演じたブランドル博士なんかを見れば分かるが、物質転送機というとてつもない大発明を、彼は世に問うどころかナンパの小道具としてしか用いないのだからものすごい。
 あげく我が身がハエと合成されちゃうミスを犯してもすぐにはそれと気づかず、「やけに食欲モリモリだ。ウッハッハ〜」などと言って研究所中を走り回るんだから、古典的マッドサイエンティストのストイックな狂気が懐かしくなってしまうよ。



 「インビジブル」の主人公である狂博士ケイン(ケビン・ベーコン)は、量子反転による人体透明化という研究をしている。
 なるほどスゴイ発明であって、彼は天才科学者に違いないのだが、反面やっぱりウルトラバカ。軍に大発明の栄誉を横取りされそうになるや、乱暴なことに自分の腕へ量子反転薬を注射して、早い者勝ちだとばかりに実証実験をしてしまう。
お前はビッグXか!
 こういうバカには当然相応のバチが当たることになっており、彼は透明化したまま元に戻れなくなってしまうのだが、ケインはそれでめげるどころか、こりゃ好都合とばかりに町中でエッチなイタズラに明け暮れる。
 バーホーベン曰く、「自分の人格の中にあった未知のものが透明化によって放たれて、邪悪の深淵へと引き込まれていく」様を描いたそうだが、何だか
喜国雅彦のギャグマンガみたいな展開だよなあ。



 物語後半は、狂ったケイン(元から狂ってるけど)が他の研究スタッフを皆殺しにしようと大暴れするが、ここでこの映画の致命的な欠陥が顕わとなってしまう。
 「姿は見えないが、殺意は見える」というコピーの通り、映画のテーマは、「姿が見えない」ことによって、人の精神までが社会的な良識のくびきを容易くもぎほどいてしまうことの恐怖である。ある意味人の本質を描いているわけだが、それを徹底するには、「透明人間」というモンスターの迫力をいかに活写出来るかにかかっていたはずだ。しかるにケイン、
見えないよりも見えていた方がずっと怖いんだもんなあ。
 何しろケビン・ベーコンはご存じの通りライオンが蓄膿になったような面相であるから、それが中途半端に透明化した状態で、血管だのリンパ節だのをグジャグジャ浮き出させながら迫ってくればゲロ怖いに決まっている。完全に透明化してくれるとむしろホッとしてしまうのである。透明化する怖さじゃなくて可視化する怖さという、全く逆の映画になっちゃってるワケで。
 またケインの尋常でないタフネスぶりも、「透明人間の恐怖」という眼目をボヤかしてしまっている。何しろこの男、突かれようが切られようが、火炎放射器で丸焼きにされようが、エレベーターボックスに転落させられようが、まるで意に介さずにグリグリ甦ってくるんだもんな。
そんなもん透明人間にならなくたって十分怖いモンスターだわい!


 
 てことで、どうも見えるとか見えないとかいう問題じゃなくて、単にアホで頑丈な色キチガイが暴れ出しちゃってご近所大弱り!みたいな印象の怪作になっちゃってるのは残念ですね。
 「インビジブル」という地味な邦題も、このオバカな作品には何気に似つかわしくない気がする。しっくり来るとしたら、せいぜい
「透明痴漢パニック!悶絶色実験!」て感じですか。女性客は誰も見に来なくなると思うけど。


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