No.108 このアニメはこう見やがれってんだ!(66) |
東京マグニチュード8.0 |
最初にネットでこの企画を知ったとき、あたしは単純に「へえ、面白そうだな」と思ったことを覚えている。 「大地震に見舞われた東京を舞台に、必死に我が家へ帰り着こうとする幼い姉弟のサバイバルドラマ」 公式サイトから読み取れるシノプシスはそんなところだ。 非常にシンプルで分かりやすい。それがまずイイと思った(まあいささか、野暮な防災啓蒙臭がしなくもないが)。 今は3Dアニメートが発達しているから、都市崩壊のスペクタクルシーンが大迫力のビジュアルで描かれるのかもしれない。それも楽しみだ。 何よりも、萌えだメカだパンツだオパイだというキモヲタ御用達記号とは無縁そうなのが嬉しい。 もちろん萌えやメカもそれぞれに楽しいが、一面そればかりで埋め尽くされてるっぽい現今のアニメ界に、こうした素朴な企画をポンと打ち出してくるなんて粋ではないか。 ところがいざオンエアが開始されてみると、予想とは全く違った作品であることが分かってきた。 そも本作は、地震災害自体をテーマとはしていない。 主人公らはなるほど大地震に遭難はするが、彼らを襲うのが仮に戦争の突発や隕石の衝突や巨大なモンスターであったとしても、ドラマは特段の支障も無くそのままに成立するだろうからだ。 主人公の少女・未来は、平穏で何不自由無い日常に倦み、常に苛立っている。 仕事に忙殺されるばかりの両親を蔑み、幼いながらに家族の絆を再生しようと心を砕く弟・悠貴の優しさも鬱陶しくて仕方が無い。 外出先で震災に遭い、悠貴と死別した未来は、しかしその現実を受け入れられず、懸命に姉を励ます彼の姿を幻視し、その手を取って家路を辿る。 ようやくたどり着いた我が家で、「お姉ちゃん、大好き」と別離を告げる弟を見て、未来は初めて気が付くのだ。あれだけ疎ましかった日常が、どれだけ尊く、かけがえのないものだったのかを。 つまり本作の眼目は、近代都市における地震災害の恐ろしさなどではなく、誰もが生来的に備えている肉親や友人に対する情愛を、しかし往々にして、それが失われてみなければ実感出来ない、人の愚かさ、哀しさを描くことにこそある。 人心の荒廃が日々嘆かれる時代にあって、そうした一種古典的で泥臭いテーマを愚直に描くことに価値があると、制作者は考えたのかもしれない。そしてそれは、少なくともあたしにとっては、最終回を視聴後にショックと喪失感で寝込んでしまうほど、強烈にアピールすることとなった。 しかし本作が、万人をしてそう感動せしめるのかは、正直今のあたしには分からない。あたしは本作を、どうしても冷静なスタンスでは視聴し続けられなかったからだ。 理由は2つある。 まず一つ。 私事で恐縮だが、近年あたしは、身内が生死に関わる大病を連続して病んでおり、本作完結後にはついに両親が共に亡くなった。 近親者との永遠の別離(あるいはその予感)を扱っている本作は、あたしにとってあまりにもタイムリーでキツい内容だったのだ。 もう一つの理由は、ヒロインがかつてのあたしとあまりにも似ていて、作品との距離感を測れなかったためだ。 あたしは比較的裕福な家庭で何不自由無く育ったが、ためかむしろ、未来ちゃんのように、人との情愛には鈍感、無頓着な幼少期を送っていたように思う。 あたしにとって、家族から愛されるなんてことは生まれ持った当然の権利であり、それへの感謝をことさらに意識したり表明したりするのは、甘ったるい、恥ずべきことであった。 例えば「勇者ライディーン」で、主人公の洸が「(生き別れた)お父さんに会いたい!お母さんに会いたい!」と嘆く。その女々しさがイヤでたまらなかった。 「お父さん」と「お母さん」というのは、あたしのウチにもいる、あの何かと口やかましい二人のことであろうか?何故あんな鬱陶しいモノに会いたいのだろう?バカなのかこの男は?と本気で思っていた。 ライディーンを作った世代の多くが身近に体験していたのだろう、戦災による肉親との死別、離別の悲しさになど、毫も思い及ばなかった。 あたしはそういう、想像力の欠片も持ち合わせない、浅薄に過ぎる小娘であった。 それがようやく半人前程度には肉親への感謝を意識出来るようになった今、父にも母にも、もう二度と会うことは叶わないのだ。まさに未来ちゃんが、悠貴を失うことによってしか、彼への情愛を自覚できなかったように。 最終回、運命の理不尽さに激するでもなく、 「どうすれば良いんだろう、悠貴、いなくなっちゃって・・・・・」 とただ静かに途方に暮れている未来ちゃんに、あたしはもう両目が腫れ上がって頭痛がするほど泣いた。愚かなこの少女が、もう一人の自分と思えてならなかったから・・・・・ かような理由であたしは、本作を客観的に評する機会を永遠に失してしまった気がする。しかしそれ故に、両親を失って打ちのめされている時でも、あたしは独りではなかった。 過去の不明と怠慢をどれだけ悔いても、再会して詫びたいとどれだけ願っても、亡くなった人にはもう決して会えない。話したいことが山ほどあっても、こちらから一方的に話すより他にない。それを思い知らされ、呻吟する愚かなあたしがもう1人いてくれた。 ガラにもなく鬱状態となって、息が出来ない苦しい眠れないもう死ぬしかないと周囲に当たり散らしていた最悪期を、あたしは未来ちゃんが同様に苦しんでいることを支えに、何とか乗り切ることが出来たのだ。 そのことについて本作には、アニメ作品としての評価を離れて、心から感謝を述べたい。 1人でアホみたいだなと自嘲しつつ、あたしも今、両親にのべつに話しかけながら毎日を生きている。家事をしている時も、ご飯を食べてる時も、お風呂に入ってる時も、車を運転中でも。そうするしかないから、いつでも。 未来ちゃんがようやくその顔を上げ、「歩き続けなきゃ。悠貴が見てる」と決意を胸に抱く、哀しいラストシーンを胸に刻みながら。 追記・3.11震災後ならばオンエアどころか企画そのものが流れたかもしれないから、2009年夏という放映時期は本作にとって僥倖であったと思います。 あたし個人的にも、好きなノイタミナ枠ということでリアルタイム視聴していたことはラッキーだったかも。 震災後の混乱が続く中で父を亡くしていますので、その後ならば本作を見る気になったかどうか・・・・ 追記2・本作の無視できない特色として、「携帯電話」というツールの扱いがあると思う。 携帯を小中学生が使うことに対して、世間ではまだ否定的な捉え方も多い。 それを介して犯罪に巻き込まれるだとか、メールやSNS等を利用した陰湿なイジメがあるだとか、リアルな対人関係の構築力を削ぐだとかの弊害は、まあ事実ではあるのだろう。 本作のヒロイン未来ちゃんも、友人とのメールにばかり没頭して他のことを顧みず、弟からは「ケータイ星人」と揶揄される。つまり家族の断絶の象徴として、携帯の忌むべきネガティブ面がまずは描かれるのだ。 しかし悠貴クンの遺書となったメールの存在により、最終回ではその携帯が一転、衰弱しきった未来ちゃんの魂を救済する重要なガジェットとして機能する。現実の3.11震災でも、唯一「携帯」だけが、かけがえのない情報を伝えたり保存したりしたことが多々あったように・・・・・ 人の生きる世には善意も悪意も等分に存在し、ツールはそれを映し出す鏡に過ぎないのだということを、本作の文芸は鮮烈に描き切っている。 追記3・毎回出てくる滝クリは全く似ていなかったが、本人的にはアレでオッケーだったのだろうか?「あたしってもう100億倍くらい美人じゃね?」とか言ってそうな気がするが。 |
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