No.18
GONZO養豚場
WOWOWで放映された一連のGONZO企画アニメを見た。
いや〜、この世の物とも思えないほどしどい(こればっかだが)!
「ゲートキーパーズ」でもいささか音を上げかけたところへ、何クソと「ヴァンドレッド」まで見ちゃったもんだから、心身共にダメージ大きすぎ。こんなものがビジネスになってしまう現代日本や恐るべし!
といきなりこき下ろしておいて何だが、あたしは「GONZO」なる職能集団の力量を、実は非常に高く買っている。
最初にこのグループの作品に触れたのは「青の6号」のアニメ企画で、ビデオ完成記念の試写会でのことであった。
白状するが、その時上映された「青6」の第1話には大変感動した。
いや、それが「青6」という括りの中で、作品として絶対的な価値があるなどと思ったのではない。
「アクション」(そう、「ミリタリー」ではなくて「アクション」だ)をこそ、そのエンタテイメントの軸に据え、その一点のみを表現したいというスタンスのブレの無さ、作家としての真摯な態度に、あたしは打たれたのだった。
「GONZO」は「ガイナックス」から派生した会社だそうだが、「ガイナックス」の代表作たる「エヴァ」が、幼児じみた作家のセンチな心情に拘泥して輝きを失っていったのとは対照的に、そこには「とにかく動いてバコバコどつき合ってこそアクションエンタテイメントだ!」という製作陣の明確な主張と意気込みが感じられたのだ。
しかるに「ゲートキーパーズ」や「ヴァンドレッド」はどうだ。
第2話でいきなりネタが割れてしまい、「まさかそれ(戦後日本がどこで間違ってしまったのか?という問いかけ)がテーマじゃないだろうなあ」と思っていたら正味それがテーマでズッコケてしまう「ゲートキーパーズ」。
しかも「この国は利潤と享楽のみを追求して人の心を忘れた」と主張する影山クンを、「悪のゲートキーパー」として封滅してしまうハチャメチャぶり。オイオイ、テーマがねじれまくっていないか?正しいじゃん、影山クン!
「ヴァンドレッド」ではそんな小賢しいテーマ性を取っ払ったのは良いが、では何か力を入れて描きたいモノはあるのかというと何もないわけであって、しょうことなしに白痴の少女キャラが一山いくらみたいな感じでチョロチョロしているのを延々映すばかり。エンタテイメントというよりは、一種の拷問です。
無論「青6」と「ゲートキーパーズ」、「ヴァンドレッド」とはスタッフも目指したものも違うのだろうが、それにしても同じ会社のお仕事として、このグレードの落差はひどすぎないか。
「青6」(といっても第1話だけだけど)にはみなぎっていた「作家が作品を世に問う喜び」は、ここには微塵も感じられない。感じられるのは、「おつむの弱いアニメオタクには、この程度のモノをあてがっておけばむしろ良心的な商売だ」というスタッフのさもしい心根だけだ。
さらに不愉快なのは、商品としてのアニメ作品のパッケージングにおいて、GONZOの手際が非常に見事なことだ。
「ゲートキーパーズ」でも「ヴァンドレッド」でも、売れ線のキャラを可愛らしく動かし、3DCGを取り入れてメカをグリグリ動かし、オタッキーな演出を適度に散りばめ、あとはパンチラとオッパイユサユサをまぶして一丁上がり。
絵は綺麗だしちゃんと動いてるしで、まずもって見てくれは申し分がないが、そこには作家が作品を作る「意味」というモノがスッポリ欠落している。何という傲慢さ、志のさもしさであろう。
さて究極的にあたしが問いたいのは、GONZOにそんな仕事をさせている消費者の情けなさである。
例えばブタは残飯を与えられても怒らないし、どころか人糞であっても喜んで食べたりする。それはブタがブタであるからであり、人もブタをブタと分かっているからそれらのモノを与える。
GONZOが(実際には良作を生み出す十分な能力があるのに)やくたいもないジャンクフィルムを作ってのうのうとしているのは、消費者たるアニメオタクが、何を与えられても喜んで貪り食う盲目の畜生であると思っているからだ。
あたしは常々、「エンタテイメントは、各人が好きなものを好きなように消費すれば良い」と主張している。が、「ゲートキーパーズ」や「ヴァンドレッド」を喜々として視聴しているオタッキーたちがもしいるとしたら、あえて言おう。
君たちはブタとして蔑まれ、存在としての底を見透かされているのだ。つまりナメられてるのだよ!
ナメられたら暴れろよ!男の子だろ!
消費者が良い作品を望むなら、自らの知性と感性を琢磨し、妥協のない態度で制作者側に発言をしなければならないとあたしは信じている。・・・まあそんなこと考えもしないからこその畜生オタッキーなんでしょうが。
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