No.7

今、そこにいる僕(2)

 「今、そこにいる僕」のキャラクターについて書く。が、最初にお断りしておくと、ラストのネタバレになってしまう恐れがあるので、本作を視聴する予定のある方は、その後でお読みになることをお勧めする。

 さて、(1)で書いたように、この世界のキャラクターたちは、皆、哀しい。それは、誰もがあまりに無力だからだ。彼らは自らの「生」に甲斐を見つけることが出来ない。そして、ドラマもそれを許さない。


 普通のアニメであれば、主人公と共に、泣き、笑い、肩を抱き合って歩んでゆくべきキャラクターたちが、ここでは無造作にその生を絶たれてゆく。「志半ばに」ならばまだ救いもあるが、彼らにはそんなものを抱く余裕さえ許されていない。


 彼らに与えられるのは、
「次の瞬間には死体かもしれない」が、「今はまだ息をしている」という自己のスタンスの確認だけだ。彼らはそれを行い、そして憎くもない他者の生を奪うことに血道を上げる。「死体にならない」ために、「仕方がない」と言い聞かせながら。



 それに真っ向から異を唱えるのが、主人公であるシュウ少年である。彼は「現実を知らない」と揶揄され、ヒロインであるララ・ルゥにすら「いい人なんて何処にもいない」と突き放されながらも、問いかけることを止めない。



 彼にそれが出来るのは、彼がこの「世界」そのものにとっての「異者」であるからだが、それにもまして、彼の一種幼児じみた素直さと勇敢さというパーソナリティーは無視できないだろう。



 そう、勇敢さ・・・
「勇気」。近年のエンタテイメントに繰り返し現れる、この無邪気なキーワードほど、あたしを激しく打ちのめす概念はない。なぜならあたしは、自分が、並ぶ者のいないほどの腰抜けであることを知っているからだ。だからあたしは、このシュウだとか、例えば「スピード」のキアヌなんかに、押さえがたい憧憬を覚える。


 あたしはシュウのように生きたい。他人を愛し、誠意に誠意で報い、弱い者を見たら手をさしのべ、例え銃口の前でも、自分が正しいと思ったことを言う・・・そんな風に生きてみたい。しかしそう願っても詮無いことも良く分かっている。あたしが彼のように生きることは、もう一度生まれ変わらなければかなわない望みだろう。


 だから普段のあたしは、自らの意気地のなさを、全て他人とその営みに転嫁して暮らしている。そしてそれを指摘されないよう、世間には背を向けている。
そうしなければ生きていけないから・・・。


 その自らの心の闇に目を向けたとき、あたしには、ララ・ルゥという、シュウに救いを求めながらも決して受け入れようとはしない、アンビバレンツなヒロインの気持ちが、少し分かったように思えるのだ。


 彼女は白銀色の髪をした美少女で、常に悟りきったかのように自閉している。一見アヤナミ型のありがちキャラかと思いきや、実は全然そうではない。しかしアヤナミが「母たる子宮」のメタファーであるように、ララ・ルゥも何者かの「例え」ではある。


 何の?それは明らかに、
人の世に対する「絶望」であろう。


 彼女は当初、狂王たるハムドによって幽閉状態にあるのだが、実のところ、それは彼女にとって問題ではない。彼女はその気になれば、ハムドどころかこの世を皆諸共に滅ぼせるだけの超能力があるのだ。


 しかしララ・ルゥは、その力をハムドのためには使わず、かといって彼に虐げられている人々を救うために用いることもしない。彼女にとって人類は、そこにいることが不愉快だと感じるにも値しない、虫けら以下の存在なのだ。ハイライトの無い彼女の瞳は、文字通り何ものも映してはいないのである。


 そのパーソナリティーは、永劫の時を生きてきたという彼女が、人という生き物のさもしさ、醜さをイヤと言うほど見せつけられた果てに形成されたのだろう。彼女はもはや、人類を憎みすらしていない。ただ静かに絶望しているだけなのだ。


 しかし逆に見れば、彼女のその心理は、他者を他者(自分と異なる者)として認められず、意に添わないものには背を向けてあきらめてしまう、
子供じみた自閉であるとも言える。


 世をすね、何事に付け気に入らず、他者と折り合うことが出来ないあたしは、そんな彼女に同病相哀れむような共感を覚える。彼女が幾万年も年を取らず、少女の形をとり続けているという描写の、なんと暗示的なことか!


 でも、そんなあたしでも、他人のちょっとした親切が嬉しかったり、真に尊敬するべき友と出会ったりして、無邪気に人を愛せた少女時代に思いを馳せることがある。ちょうどララ・ルゥが、
「夕日を見るのはスキ。色々なことを思い出せるから」という、思いがけない感傷を披瀝することがあるように。


 彼女は恐らく、夕日が美しいのはそれを見ている人間がいるからだということを知っているのだろう。そんなことはあたしだって知っている。しかし彼女は、それを認め、もう一度他者を愛し、「力」を使うことには、最後まで二の足を踏む。なぜならそれは、彼女が否定してしまった世界だからだ。あたしが自らのアイデンティティを守るために、比喩ではなく、
「軸足を半歩でもずらせば死んでしまう」という強迫観念に囚われているのと同様に。


 ララ・ルゥは、超能力を使えば命をすり減らすと言う。そう、彼女がその「力」を使うということは、
他者と向き合い、世の中と関わるということなのだ。そしてそれをすれば、あたしと同様、彼女は生きていけないのである。


 ララ・ルゥとあたしの違いは、ドラマの要請によって、彼女がその十字架を背から降ろさざるを得ないことだろう。しかしそれで彼女の魂が救われるわけもなく、その瞳の色は最後の最後まで哀しげだ。「力」によってもたらされる新しい世界は、すなわち彼女への引導なのだから。


 全てが終わった後、ララ・ルゥは、その儚げな印象そのままに、宙へと散滅してゆく。「ここの夕日も綺麗だ」と言うシュウにうなずき、
「いつかまた、一緒に、夕日見ようね・・・」と言い残して。


 その遺言は、シュウのようにはもう決して生きられない、生きようとすれば消えてゆくしかない、自分に対する絶望のメッセージではなかっただろうか。だとすればそれは、あたしの心の声でもあるのだ。


 シーンのあまりの美しさ、残酷さが、まるで掌にすくい上げた最後の清水のように哀しく、愛おしくて、声を上げ、あたしは泣いた。


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