No.9
ドラマとしての十兵衛ちゃん
道ちゃんこと松田道諭樹氏にLDをダビングしたこともあって、最近例の「十兵衛ちゃん」を全編再視聴した。で、この作品について書く。
今回は、本作を文芸面から読み解いてみようという試みである。ついでに、と言うては何やけど、この作品によって、あたし(ラスカル)がどのように救われたかも書いてみよう。
さて、本作は言うまでもなく「ナンセンスギャグ・スラップスティック」であって、であるからには、作家が語ろうとしたテーマは「ギャグ」そのものである。
そんな本作を楽しむコツは、「作者が真に伝えたかったことは・・・」などと野暮な事を考えず、ただ笑い転げて見ていることだろう。
したがって、今回のあたしの試みも、野暮も野暮、大野暮ということは承知しているが、本作の底流を為す「ちょっと真面目な部分」を掬い上げずにおくのも、あまりに勿体ない気がするのだ。で、書くよ。
最初にズバッと言ってしまえば、「十兵衛ちゃん」とは、「道に迷う人々」の群像劇である。
この物語において、登場人物たちは、とにかくよく道に迷う。主人公の菜の花自由からして、登場してアッという間に道に迷っちゃうのだ。その後に登場するキャラクターたちも、ことあるごとに道に迷って狼狽える。街中方向音痴の佃煮である。
彼らが進むべき方向を見失うのは、大概において、ドラマの主舞台たる竹藪の中であって、となればこの竹藪が、本作において何らかの象徴たる位置付けをされているのは自明であろう。
一体この竹藪は何を暗喩しているのか。
言ってしまうと実に陳腐だが、この竹藪こそは、「人生」のメタファーそのものであろう。
登場人物たちは、この中で繰り返し道に迷うだけでなく、何らかの宿命と出くわしたりもする。それは友人との邂逅であったり、敵との相克、あるいは和解であったりするのだから、これがカリカチュアライズされた「人生」でなくて何だっちゅーの。
さて、本作は「父娘の心の交流」というものをドラマの骨組みに据えているのだけれど、この父娘・・・つまり主人公の自由と、父である菜の花彩も、進むべき道がこれでよいのかと、竹藪(人生)の中で自問することになる。
この親子は、他人のために誠意を尽くそうと心を砕いたあげく、我が身の幸を省みる余裕を失い、結果、取り返しの付かない残酷な境遇を十字架として背負わされている。言ってみればトラウマ父娘なワケだ。
で、2人が、綻びかけた絆を取り戻そうと互いに手探りをする回想シーンがあって、そのあまりにセンチな描写に、恥ずかしながら、あたしなんかはつい泣いてしまうのである。
彩 「・・・パパにはもう、思いつかない。どうしたら、お前のパパになれるのか・・・」
自由「・・・・・引き算・・・」
彩 「え?・・・」
自由「引き算・・・分かんない・・・」
彩 「引き算?・・・」
自由「16引く7・・・10の位から、10借りてきて・・・・・借りてきて・・・」
彩 「・・・・・」
自由「(涙声になって)借りてきた10は、いつ、返せばいいの?・・・」
彩 「・・・あ・・・返さなくていいんだ・・・」
自由「え?・・・」
彩 「(何かに気が付いた様子で、自身に言い聞かせるように)・・・返さなくていい・・・引き算だから・・・」
自由「・・・いいの?」
彩 「いい・・・いいんだ、返さなくて・・・」
親子は、他人からどんなに暖かく思いやられようと、あえてそれには応えようとせず、自らの幸せだけを願って生きていこうと決意したのである。
それは、その限りにおいて正しい。人には誰でも、我が身だけの幸福を希求する権利がある。まして心に深い傷を負った父娘が、ささやかな幸を、掬い上げたその掌からこぼしたくないと願うのを、誰が身勝手だと責められようか。
生きていく上では他者の助力が必要なことだってあるだろうが、手を貸したその相手にしたって、恩を返してもらうことをアテにしているわけではないだろう。・・・引き算だから、返さなくていい・・・父娘は、その道を行くことに決めたのであった。
だからこそ自由は、降ってわいた「2代目柳生十兵衛襲名」という宿命を、「重い生理が来たみたい」だと退け、救いを求める人々に、「私は、私のことだけで精一杯なので・・・」と、その超能力の行使を躊躇する。
しかし助力を乞い願う声に背を向け続けることが、彼女の優しい心根にプレッシャーを与えないわけはない。ましてそれが、愛するべき友の声だったとしたら・・・。
結局自由は、真っ向から宿命に立ち向かうことを選択する。
「借りてきた10」を、彼女はやはり返そうとするわけだが、その決意を示すセリフ、「きっと、帰ってくるから・・・夕御飯、一緒に食べようね・・・」に収斂する感動こそが、ドラマとしての「十兵衛ちゃん」の眼目であろう。
自由の選んだ道は、果たして正しい道なのか、竹藪の向こうに光明が見えているのかは、彼女自身にも分からない。しかしそれでいいのだ。藻掻きさまよい続けなければならない人の業は、無様であるがしかし美しいと説いた人間賛歌、それが本作なのだから。
「どう生きるかを見つけるために、生きるんだなァ・・・」
自由が、齢三百歳(!)の鯉之助に語ったこの陳腐なセリフは、たかだか半世紀も生きていないのに、すぐに挫けかける柔弱なあたしの心を、陳腐であるが故に、むしろ力強く支えてくれているような気がする。
どんなに暗く、曲がりくねった竹藪の道でも、常に勇気を失わず、前へと歩いて行けるように。
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