No.3
モスラ3について
正月に見るともなくWOWOWを見ていると、「モスラ3」をやっていた。いやー、ヒドイ作品、劇場では爆睡したなあなどと思い出しつつ、しかしあたしって、平成モスラ三部作って結構スキなのである。
そういえば去年(1999)のお正月、内輪のパティオに「モスラ3」の批評を書いたことがあって、これが自分ではなかなか気に入っている文章だったりするので、せっかくだからこちらに転載してみんと欲す。で、以下は一年前に書いた内容の改訂稿である。
あたしは「モスラ三部作」を、少なくとも平成ゴジラシリーズよりはマシな作品と総
括している。何か邪気がないというか、腰が低そうなセールス態度なんで。
スタッフはもはや自分たちに「特撮」と呼べるワンダーなモノ作りが出来ないことを自覚し、その点での努力をあっさりと放棄してしまった。
同時に何やら大層なことを言ってるようで、実はミジンコの前肢の先に生えた毛ほども内容のないテーマというかメッセージを盛り込むのもやめてしまったのだ。
しかしどうせしょうもないものを作るにしても、せめて見に来てくれる子供達の心に届く言葉で語りたいというスタッフの誠意は、開き直りだと切って捨てるには忍びなく、最低限の良心は捨てていなかったのだと積極的に評価したい。
気の毒というか身につまされるのは、その誠意を作品で効果的に表せない、スタッフらのあまりにも貧弱な才能だ。
今回の作品について言えば、やはり脚本の推敲不足がもったいない。端的に言えば、キャラクターの語るメッセージが完全にドラマから浮いてしまっていることが惜しい。
そもそもあのキングギドラとは何者だ?たまさかフラリと地球に立ち寄ったのか、それともベルベラが何らかの交感能力によって呼び寄せたのかハッキリしない。あの怪物をドラマとリンクさせるには、やはりベルベラが召還したのだとハッキリ言うべきだっただろう。
しかし彼女が呼び寄せたキングギドラは、想像を絶する邪悪な怪物だった。それがもたらす破壊の凄まじさに、ベルベラは気が付く。力とは、それを行使する者にも、いつか牙を剥くものだと。
そして苦戦する妹たちに、ベルベラは血縁への情にほだされて手を貸すことになるが、その戦いの中で彼女は悟る。自分は世をすねていたのではない。妹たちに足りないモノを補完するよう、運命づけられていたのだと。
こうしたドラマの流れを単純に、しかしハッキリと語ることによって、ベルベラの
「あたしたち三人の考えはいつもバラバラだった。でもそれでいいんだ!」
とか、
「優しさだけじゃダメなんだ。怒りや憎しみのワケを探すんだよ。そうすれば優しさは何よりも強くなる!」
などというステキなメッセージは、はるかにリアリティーを持って視聴者の胸に迫っただろう。
同時に人間側の三兄弟との対比ももっと効果的に演出されるべきであり、つまりはその確執と和解を、エリアス三姉妹のそれとパラレルに描き出すべきだっただろう。そのためには、主人公の少年を登校拒否児童などではなく、もっとマンガチックでダーティーなキャラにしても良かったと思う。
画面で見て分かるとおり、このシリーズのモスラはいわゆる生物ではない。何者かの力を代表する、観念的な「たとえ」のようなものだ。
今回の完結編で、その何者かとは、三姉妹の体現する価値観が幻想上の一致をみたもの・・・つまり現実には永遠に満たされないだろう人間の理想像そのものであることが明らかになるわけだが、当のモスラは相変わらずのやんちゃぶりで、「小さいけどとても勇気があ」って、「飛ぶことが何よりも好き」な、溌剌とした少年のようなイメージだ。
ゴジラの上空に悠然と飛来した、あの古老のような風格のある初代モスラとは違う、この平成モスラのキャラクターが、あたしは好きだ。
ゴジラの倍はあろうかという超巨大ぶりで圧倒的な迫力をデモった初代とは違い、平成モスラは、自分の倍はあろうかという強敵に、常に正面からパチキをかましてゆく。それは「優しさ」と「勇気」が決して併存出来ない観念ではないというスタッフのメッセージを、上手く表現していると思う。
てなわけで、自分たちの平成モスラに出来る限りの新しい息吹を吹き込もうとしたスタッフを、今回はちょこっと弁護してみた。
これで、途中で爆睡モードに入らない程度の面白さがあればいいのになあ、モスラ。もう一度見ろと言われたら自殺したくなっちゃうもんなあ。
ついでに書いておくが、モルが「モスラを呼びましょう!」という毎度おなじみのシーンで、あたしは何故だかフランケンロボを連想する。
・・・て再録してみて思うけど、根がセンチですね、あたしって。だけどこうしたレビューを書く気にもならない「ゴジラ2000」って、作品としての「世も末度」において、さらに深刻だと思うんです。もっとも、その特撮については、後にまた触れることがあるかもしれませんが。
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