機動戦士Zガンダム

 「機動戦士ガンダム」を、単なる一傑作アニメから、エンタテイメントの「ジャンル」そのものにまで発展させる端緒となった作品である。故に本作自体は凡庸としか言いようのない出来なのにかかわらず、ロボアニ史の中に位置付ければそれなりのエポック作ということになり、例えは妙だが、何やらカエサルが踏んづけたからという理由だけでつまらない石ころが歴史遺物になってるような気分。全く持って癇に障る作品である。
 何も下衆の後知恵で今さらに悪く言うのではない。
 企画発表当初から「Z」への風当たりはすこぶる強かったし、ガンダム世界そのものが本作によってスポイルされてしまうのではという危機感を、当時のアニメファンの多くは等しく抱えてもいた。そしてそれは、人気作の続編は往々にしてコケるからという単純な経験則から漠として生じただけではなかったのである。



 ファーストガンダム放映当時、富野氏がそれを手がけた動機を端的に語ったことがある。
 「ガンダムを作ったきっかけは『ヤマトをつぶせ!』です。他にありません」
 と。


 
 無茶かつ節操のないシリーズ化によって、当時すでにまともなアニメファンからは見放されつつあった「宇宙戦艦ヤマト」に、「こんなやくたいもない作品には市場からご退場願おう。そのためにもオレたちがもっともっと面白いモノを作ってやる!」と引導を渡す役を氏は買って出たのだが、同時にそれは、価値あるアニメ文化というものは、コマーシャリズムだとか消費者の勝手な欲求に阿ることによって生まれるものではない、作り手が真に面白いと信じるものを作り出すことによってのみ担保されるのだという、氏の作家としてのピュアかつ強烈な自負の表明でもあった。
 その意気に感じ、氏に熱いエールを送った多くのファンたちを、純情に過ぎると誰が笑えよう。



 そんな氏が、七年を経て「ガンダム」の続編を作るというのだから、同じだけ年を取って多少すれっからしになっていたとは言え、かつてのファンたちが「裏切りだ!」と腹を立てない道理はない。
 富野氏が「Zガンダム」企画発表に当たり、ファンへのメッセージという異例のテキストを発表して、この企画を手がけることへの言い訳を(言い訳はやめると言いながら)長々としたのは、そうした自らの過去の言説と本企画との齟齬を恥と自覚していたからに他ならないだろう。



 かよう、アニメファンたちに疎んじられることを最初から運命づけられていた本作は、しかしそのことが制作陣に良い意味での緊張感をもたらしたためでもあるのか、いざ放映が始まってみると、意外にも「そこそこ見られる」作品として注目されることとなった。
 シナリオにはそれなりに「ガンダムっぽいシリアスさ」が盛り込まれており、ファーストの世界と地続きになっているという雰囲気を感じることが出来たし、何よりも「『続編』のパターンを覆す」という試みが、作品に上手く新味や躍動感を与えていた。と言うのも、当時としては「Z」のような続編の作り方は珍しかったからだ。


 
 当時あった代表的な「2」ものは、例えば「ヤマト2」にせよ「ガッチャマン2」にせよ、メインキャラは前作と同じ人物であり、同じルックスであり、歳もさほどには重ねていない。
 しかるに「Z」ではカミーユ・ビダンという新キャラが主人公として据えられ、一方で前作の登場人物たちは律儀に7年分歳を取り、脇役として登場する(この辺りの考察、毎度米金敏三博士の受け売りで恐縮です)。
 こうした「2もの」の作り方は当時(テレビアニメとしては)新機軸だったのであり、そこに富野氏の「やるからには当たり前の続編、二番煎じにしたくない。新しい『2もの』のフォーマットをオレが作ってやる!」という強い意気込み、意地を見ることが出来る。
 かつて「ヤマト」を揶揄した自分が、今や同じ商業主義に呪縛され、嘲笑される側に回るという恥辱を強いられながら、それでも氏は氏なりの積極性を持って作品に取り組もうとしていたことが分かるのだ。



 しかしとてつもなく飽きっぽい、かつまた甘えん坊の富野氏は、本作がそれなりに快調な滑り出しをした、という時点でもう早モチベーションを消耗し尽くしちゃったんだか何だか、またしても自らの手で全てをぶち壊しにしてしまう。
 作品内容が開始当初のテンションを保持し得たのはギリギリ16話前後までであって、その後は坂を転げ落ちるように散漫の度を増してゆき、結局50本という長大な尺を消化して残ったモノはと言えば、ファンたちが「ダンバイン」、「エルガイム」でもさんざ味合わされてきた、「ああ、この人はもう作家としては死に体なんだな。こんなモノしか見せてくれないんだな」という、毎度のトホホな印象だけなのであった。



 「Zガンダム」を失敗作たらしめたファクターは大小様々あるが、分けても主要なものを一つだけ挙げるとすれば、「メカニカルアクションとしての痛快さを全く欠く」ということに尽きるであろう。
 何故「Z」はメカアクションとして成功しなかったのであろうか。
 それは主役メカたるZガンダムに注目すれば自ずと理解される。この機体は、それ自体、「Z」が失敗作たる所以を見事に象徴しているからだ。



 そもそもZガンダムは、その設定が発表された当時から何気に評判の悪いメカではあった。
 とりわけファンの不興を買ったのは、これが変形メカ、しかも人型から航空機型へと変形するキャラクターだったということだろう。
 要するに、バルキリーの大好評に便乗しただけではないか(マクロスはZの前年にオンエアされていたし、Wライダーはバルキリーの天地を逆にしただけのようなデザインだ)、大体どうしてガンダムが変形なんぞしなければならんのだというワケだ。



 しかしあたし個人は、当時それらのことは大きな問題だとは感じなかったし、今でもそれは変わらない。Zガンダムのデザイン自体は好みではないが、ガンダムが変形することもまあアリだと思う(勿論しない方が良いけど)。
 この世界にはモビルスーツとモビルアーマーという二種類の代表的な機動兵器が存在するのだから、その両方の利点を兼ね備えた変形モビルスーツの出現にはそれなりに説得力があるし、そも「ガンダム」という作品には、ファーストの時から、中途半端ながら、変形、合体というオモチャ的要素は盛り込まれていたのだ。



 ではZガンダムの何がいけなかったのか。
 それはメカのデザインやキャラ性ではなくて、劇中での扱いである。この主役メカは、カッコイイ活躍というのをまるでしなかったのだ。ただ単に、劇中後半に出現して、主人公が搭乗したというだけ。つまりロボットアニメのシンボルたり得ていないのである。



 マジンガーZが、ただ兜甲児が乗っているだけで、敵をバキバキ屠りもせずにボンヤリと突っ立っていてはどうなるか。マジンガーさえいなければ!と敵を畏怖させたり怨嗟の対象となったりしないようではどうなるか。そんなロボットアニメは誰も見たがらないのである。見ても面白いわけがないのである。
 Zガンダムはその「見ても面白いわけがないロボットアニメ」なのであって、その印象は、物語前半の「仕込み」が、むしろ級代以上にキチンと出来ていたことで、余計に際立ってしまっている。
 つまり敵が使う変形MSの威力を存分に見せつけ、それに苦戦ばかりしている味方MSというタメ(フラストレーション)演出は不足なく為されていたのだから、後半Zガンダムが登場し、散々辛酸をなめさせられたそれら強敵を手もなく粉砕するというカタルシスが演出されさえすれば、ドラマ本体の益体も無さはともかく、ロボットアニメとしての痛快さは最低限担保されたはずなのだ。
 しかるにZガンダムはと言えば、エゥーゴ側に初めて出現した変形MSであるのに、その初登場で敵がビックリするでもなく、圧倒的な高性能を見せつけて敵を蹴散らすでもなく、どころかスペック的には劣るであろうギャプランやマラサイにまで手を焼かされ続ける始末。
 これならばわざわざ主役メカ交代というドラマを盛り込む必要などは無かったし、もっと言えば「Zガンダム」というタイトルを冠したロボットアニメである必要すら無かったことになる。そのことが、本作に失敗作の烙印を決定的に押したのである。


 
 何故富野氏がZをそのように作ったのかと言えば、単純に、「メカがカッコヨク活躍するロボットアニメ」なんぞを作るつもりも意欲も全くなかったからであろう。
 そのことは、当時メック誌のインタビューに答えて富野氏が語った「今は戦闘シーンを一生懸命、たっぷり描いているヒマがない」という言葉に強烈に象徴されており、一方で、氏にすれば、人間ドラマだの生き方論だのを「一生懸命、たっぷり」と描いていたつもりなのかもしれぬ。
 しかし毎度超絶安くてイタイそれらなど、真には誰も見たいなどと思っていなかったというのが現実であって、「見たくもないモノを見せられ続けた」という苛立ちは、多くのロボアニファンにとって、放映終了後にそのまま本作の評価となった。


 
 ひっきょうするに、拙稿
「ザブングル」で述べた「くたばれロボットアニメ!」という独りよがりな戦いを、富野氏は「ダンバイン」、「エルガイム」、そして本作でも懲りずに継続し、再びまた敗れたわけである。
 そして氏の積もりに積もったルサンチマンは、続作たる「ガンダムZZ」において、異様にグロテスクな形でついに爆発することとなる。(次項に続く)

機動戦士Zガンダム

ストーリー

演出

作画

メカニック描写

エポック度

総合評価

 ★総合評価基準=A・超良い、B・良い、C・普通、D・悪い、E・死んで欲しい

ちなみに絶対的な評価ではなく、その当時のアニメ界における相対的な評価です。



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