No.11

ブギーポップは泣けてくる

 何やらメディアミックスで話題をまいているらしい「ブギーポップは笑わない」であるが、そのテレビアニメ版をようやく視聴し終えた。
 判決主文を後に言い渡すような面倒なことはしたくないので最初に書いてしまうが、ハッキリ言って
反吐が出る!
 近頃、本当に増えたよなあ、この手のお子様作品。



 いつも書くことだが、こういう、勉強はそこそこに出来るのかもしれないが、国語力と想像力のまるでない中学生の作文然とした作品を見せられるにつけ、この国のアニメ業界が、
プロデューサーを生み出すキチンとしたシステムを失ってしまったことを強く感じる。



 あたしが子供のころのアニメは、それがどんなにつまらない作品であったとしても、それなりに作家としての訓練を受けてきた
大人が作っているという、プロの凄味があった。
 名のある大家に師事をしてキチンと修行を積めば、例え本人は芸術的には何ら価値のない凡庸な工芸品の作家にしかなれなかったとしても、その作り出すモノにはそれなりの風格や折り目正しさが備わるはずである。


 
 しかるに現在のアニメ界はどうだ。


 
 この「ブギーポップ」のスタッフや、毎度揶揄する小中千昭氏等、「てにおは」も怪しいお子様作家のオンパレード。
 「ガサラキ」のシリーズ構成をやった野崎透氏なるヌエ的な業界ゴロもいれば、「エイトロン」や「マクロス7」のアミノテツローのような、真性の白痴ではないかというヨモスエプロデューサーもいる。右を向いても左を向いても、
よーのなーかバカなのヨ〜て感じ〜。



 だからつまり、素人であるあたしが想像するに、アニメ界においては作家を育てるシステムというモノが崩壊し、そこらで口を開いて地べたに座っているジャリが、いきなりアニメ作家になって肩で風を切れるような現況ではないかと思うのだがどうか。



 もっとも、たとえその想像通りであったとしても、そのこと自体は全く悪いことばかりであるとは言えまい。
 漫画界なんてずーっと昔からそういうシステムだし、そういう鷹揚な作家登用方は、野に埋もれている優れた才能をすくい上げるという効用もあるだろうからだ。


 
 だがしかし、すくい上げた才能が庵野秀明のような真の天才であればよいが、前述したように、見たところ大抵は
アウストラロピテクスのような人類以前の生き物なのである。
 なお悪いことに、例えばマンガ界であれば、才能のない者は市場によってキチンと淘汰される(EX・あたし)が、共同作業であるアニメ界にはその装置が働きにくいのも困りものだ。
 つまりジャンクがジャンクとして正当に評価されず、のうのうと作家でございという顔をして収まりかえっていられる(らしい)のだ。文化を生み出す職種の現状として、こりゃあお寒うございますわ。



 さて、愚痴が長くなったが、「ブギーポップ・・・」という作品そのものについて、少し触れておこう。


 
 本作には、「作家が視聴者に伝えたかったこと」、つまり「テーマ」なるモノは、微塵も存在していない。スタッフは「いや、ある」と抗弁するかもしれないが、それは足りないオツムでそう思いこんでいるだけだ。
 スタッフの目論見とは、そこそこにリアルな手触りの現代日本を(事象及び若者の心象を通して)「絵」として描き、「ああ、そこそこにリアルな絵ですねえ」という程度に感心してもらい、ギャランティ分の話題をまいた後に忘れ去られるジャンクフィルムを作ることだったのだろう。



 根本がそうであるから、作品は全体として文芸の体を成していない。どうでもいい、しかしそこそこにリアルな日常の切り絵がパラパラと積み上げられてゆくだけだ。
 ラストに来て何やらセンチなお題目が唐突に唱えられるのは、スタッフも
これでは作品になっていないということに遅蒔きながら気が付いたからなのだろう。


 
 「構成が非常に緻密で巧み」であるという評を某誌で読んだが、時系列を適当にイレコにしてパッケージングをするくらい、
チンパンジーのアイちゃんだって訓練をすれば出来そうである。



 要するに、作る側も、作品を視聴する側も、またそれを評する職業文筆家も、すべてが
白痴なのですね。だからその中でビジネスが成り立っているワケだ。
 と考えれば、これはこれで、寒いなりに上手く機能しているシステムと言えるのだろうか。まあ、そのために消費される熱帯雨林とか化石燃料には申し訳ないですが。


 追記・それにしても、もしギャグでやっているのでないのなら、扱う小道具にもう少し頭をひねってはどうか。「電磁場」とか、「合成人間」とか、「進化新人類」とか、まさにタニシ並みの脳味噌。あたしだったら恥ずかしくて
自殺しちゃうぜ。


→電波館のトップへ戻る