No.42

このアニメはこう見やがれってんだ!(6)

 今回は珍しくニャントロ星人とあたしの怒りがバッチリシンクロしたため、悪口度5割り増しでお送りいたします。大文字強調ばかりでさぞかし読みにくいとは思いますが、それはしょうむない作品でささくれ立ったあたしの心のお裾分けだとあきらめてとっとと読みやがれクソッタレが!


ラーゼフォン


 世紀が変わって後に作られたTVアニメシリーズの中で、2003年春現在、あたしにとっては最も唾棄すべきゴミクズ作品。全く持って
反吐が、反吐が、反吐が出るぜラーゼフォン!



 とは言え本作が初監督作品となった出渕裕氏に、あたしはこれまで特段悪感情を持っていたわけではない。
 氏の過去のお仕事はもっぱらメカその他のガジェットデザインで、つまりロボットだとか宇宙戦艦だとかクリーチャーなんかのデザインをするワケだが、あたしはそのいずれも「好きだ、カッコイイ!」と思ったことがない反面、「イヤなデザインだ」と強く思ったこともない。
 氏のデザインラインには常に何らの新味もなく、その時々の流行りの線を小器用に紡ぎ合わせたって感じなのだが、それでもマジメに、ベストを尽くして作業をしている風がうかがえて憎めないのだ。
 また氏はアニメ演出に対しても様々な発言をしてきたが、それらについても特に反発を覚えたことはない。どころか、むしろ共感を覚えることも多かった。
 例えば、ダメになっちゃって後のガンダム、つまり「Z」だとか「ZZ」等に対する、「もっとシンプルで分かりやすいエンタテイメントが見たい」だの「MSに変形させる意味が全くない」だのという真っ当な発言には、こういう普通の人に普通のガンダムを作らせればいいのになんて思っていたくらいだ。
 しかるに、不足なくデザインや批評の出来る人が、ではそのまんま名ストーリーテラーにもなれるかというと、やっぱりそんな安直なもんじゃないのだなあ。「ラーゼフォン」と比べたら、例え「ヴァンドレッド」だろうが「おねてぃ」だろうが抱きしめて一杯キスしてあげたくなるもんなあ。



 肝心の作品内容がどんなもんかというと、巷間散々言われているように、「勇者ライディーン」をコテコテヌルヌルベタベタクドクドのエヴァ味で語り直したって感じだ。
 だけどライディーンがあくまでもロボットアニメ、つまりストーリーはどうあれ真の眼目はロボットプロレスを格好良く見せることだけにあるエンタテイメントだったのに対し、ラーゼフォンのドラマの主幹を成しているのは何か「タッチ」を思わせるような
クソガキの恋愛ごっことか苦悩ごっことか運命慨嘆ごっことかニヒルごっことか悟りごっことかであって、さすがに制作者としてもそれが照れ臭いのか、意味など全くないカスみたいな修辞をゾロゾロくっつけて内容の浅薄な実体を糊塗しようとしている。「アルジェントソーマ」なんかと同じ、あたしが一番嫌いなインチキ作劇法だ。もはや小賢しいという言葉すら勿体ないわうすらバカ共めが!



 こんなやくたいもないモノを作っておきながら、出渕氏は「やり残したことはない」などとステキなことをほざいているそうだが、やり残したことがないのではなく、最初からやることもやりたいことも無かっただけではないか。
 それはそのまんま人間出渕裕の中身のカラッポさを表していて、つまり青年期からずっとアニメと漫画の制作現場にズップリで生きてきた氏は、そこで
アニメと漫画のこと以外には何も学ばなかったのであろう。
 頭の良い人みたいだからそれに無自覚であったとも思えないのだが、番組放映前に出した
「(ラーゼフォンで)ロボットアニメの新しいスタンダードを目指します」なんて窪塚洋介がマジックマッシュルーム喰ったみたいなクソタワケコメントを聞いてると、周囲によほど無責任な茶坊主でも群れていたのかと勘ぐりたくなる。それとも最初から単なるドアホウなのか?



 こんなものがロボットアニメの「スタンダード」になるくらいなら、あたしゃ死んだ方がマシである。だけどあたしが死ななきゃならない義理なんぞないので、
出渕さん、アンタのが死んでくれ。いや少なくとも、二度とプロデューサーをやってみようなんて勘違いだけは起こさないでください。ホントだぜ。頼むよもう全く。


パタパタ飛行船の冒険

 
 う〜ん、
何なのかなあこれは?
 作品の出来がどうしたこうしたという前に、何故こんなものが、新世紀(2002年)の日本で、それもWOWOW衛星波にてオンエアされたものか正味奇ッ怪なり。



 本作はヴェルヌの「悪魔の発明」、「サハラ砂漠の秘密」を原作(と言うよりはほんのイメージソース)としたシンプルな冒険譚で、雰囲気としては往年の日本アニメーション(念のため書くが会社の名だ)作品のノリを何気に再現してみましたって感じになっているのだが、いやもうその全編に横溢する泥臭さと垢抜けなさとテンションの低さ、各エピソードのスカスカぶりはちょっと尋常でないレベル。
 ストーリーは一話と二話だけ見ればその後の展開が全て綺麗に想像できてしまうし、全てのキャラは次に何を喋るのか2代目ジョジョよろしく予知が可能だし、今風にCGを取り入れている画面もせいぜい代々木アニメーション学院の卒業制作作品みたいな仕上がりだしで、どうもプロのお仕事という迫力が感じられないんですよね。



 何つーか、80年代初頭にオンエアされたものの、その散漫な内容から少しも人気が振るわずに忘れられていった作品をコッソリ再放送してみましたっていうと丁度しっくりくるような感じなんだけど、だから冒頭書いたとおり、2002年にこいつを楽しめと言われたってちょっと無理があるんじゃないかなあ。



 これはあたしの勝手な想像だけれども、本作は最初から、欧州あたりへのセールスを主眼に企画が起こされているような気がするな。
 海外、それもヨーロッパでは今でも、アニメというのは(一部マニアを除けば)子供だけが見る他愛もない娯楽だから、この程度の作品でも十分需要がある。いやむしろこういう、一応は不足無く完結しているというだけで毒にも薬にもならない凡庸な造りの方が、向こうの親御さんたちには好意を持って迎えられるかもしれない。
 その辺を見越して、
最初から文芸作品としての着地点を低く低〜く定めてお仕事してるって感じがするんだけどどうかなあ。
 まあ仮にそうだとしても、そのこと自体は戦略として邪(よこしま)というほどではないし、作品そのものもマジメに作っているのは分かるんだけど、作家のお仕事としてどうなのかとなると、限りなく0点に近いと思う。
 不器用な人がそれなりに一生懸命作った工芸作品を笑うことは出来ないが、芸術として評価も出来ないでしょ。そんな感じ。いやはや
変なモノを見ちゃったなあという印象です。



 追記・どうでも良いけど、GARNET CROWの歌う主題歌は、サビの部分が「ネバーエンディングストーリー」のテーマにソックリな気がするニョ。


花田少年史



 毎度マッドハウスの仕事は地味だけどバカ真面目で丁寧だなあとしみじみ感心させられる良作。
 とは言え、あたしは別に本作の大ファンであったとか、欠かさずビデオに録画していたとかそういうんではない。放映日になるとまあ何となく眺めていたって程度だ。だから全話を視聴したわけでもなく、恐らく4、5回は見逃しているでしょう。


 
 何でそういう視聴体制になっちゃったかというと、かつて「はじめの一歩」が放映中に、それを見ながら紅茶を飲むというおかしな習慣がついてしまったため、その時間になると何となくテレビ&夜中のティータイムって感じになっちゃうのだ。寝てすぐお手洗いに行きたくなっちゃって困るんだけどさあ。



 さて本作には人気マンガが原作としてあるらしいが、例によってあたしは未読。そして恐らくはその原作の持ち味なのだろう色んな要素が、最初あたしにはいちいち気に入らなかった。だから「こいつは毎回見なくっちゃ!」という気にならなかったんですね。

 最近何故か頻繁に見かける、中途半端にノスタルジックな年代、舞台設定。
 あまりにもあたしの趣味とかけ離れた、泥臭くて垢抜けない絵柄。
 作劇上のテクニックであることは理解するが、恐ろしく頭が悪くて下品で粗野で無神経な主人公。 
 ステレオタイプの極みとも言うべき予定調和の連続コンボな各エピソード。

 どれもこれもあたしの好みではない。だからタイミングが合えば見るけれども、見逃したって別に痛くない。
 あたしにとっての「花田少年史」はそういう作品であった。正味そうだったのだが、しかるにどうして、毎週毎週、見ていてこんなに
が出ちゃうのか。ネコの話とか最終回なんか、あんまり大泣きしすぎて目が腫れちゃったぞ。



 思うにこれは、アニメ「花田少年史」が良い仕事であったからというのも確かだけれど、と同時に、もはやこんな陳腐なテーマや語り口がこの上ない実感を持って胸に迫るほど、
あたしがどうしようもなく歳を取ってしまったということなのかもしれないな。
 あたしたちの生きているこの時間は何と尊いのだろう。何とかけがえがないのだろう。
 そう気が付いたところであたしのスチャラカな生き方は何も変わらないであろうが、でもいい年をしてそんなことにも気が付かないよりは何某かマシかもしれない。
 ありがとう花田少年史。ありがとうマッドハウス。


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