No.6

今、そこにいる僕(1)

 俊英、大地丙太郎監督の話題作アニメ「今、そこにいる僕」を、ようやく見終わった。いや〜、ビックリした!スゴイよ大地監督!

 て書くと何やらたまげた大傑作と思われるかもしれないがそうではなく、本作はむしろ、完全な失敗作と断じてもよいほどのいびつな仕上がりである。(最近ミソを付けっぱなしのライター、倉田氏の責任も大きいだろうが)

 カメラが一台しかないような、一本道のストーリーテリング、生のまま投げ出され、互いに呼応もせず収束もしないエピソード、箱庭的で拡がりのない世界観、登場したことが気の毒になるような、甲斐のない扱われ方をするキャラクター・・・・。

 しかしそうした欠点は欠点として、この作品の持つ魅力から、あたしは目が離せなくなってしまった。何より、大変な力作であることは疑いようがないからだ。

 本作は、1人の狂王が支配する異世界(恐らくは未来の地球社会)へと迷い込んでしまった少年の物語である。

 彼は少女の姿をした精霊(?)ララ・ルゥを守るために、狂王と対峙することになる。何やら「未来少年コナン」を彷彿とさせるプロットで、事実画面には「コナン」への強烈なオマージュが感じられるが、結果描かれる世界は「コナン」と似ても似つかない。

 ここには胸躍る冒険もなく、痛快なアクションもなく、導かれるべきカタルシスもない。あるのは凄惨な現実と、それに対する果てしのない絶望だけだ。

 主人公である少年シュウは、その現実の前にひたすら無力である。彼は優しく一徹な心と、無邪気とも見える勇気を併せ持った好漢だが、その彼をして、この世界の恐るべき現実はいかんともしがたいのだ。いや、結果的に彼がこの世界を解放へと導きはするのだが、彼自身も、そして視聴者も、それを自らの幸いであると自覚することはないであろう。我々はただ呆然とするだけだ。積み上げられた不幸と死体の、あまりの莫大さに。

 その「絶望」を演出するために、制作者は禁じ手とも言えるエピソードを次々と叩き付けてくる。

 奴隷支配、拷問、虐殺、強姦(!)等々、目を閉じ耳を塞ぎたくなるシーンのオンパレード(死語)!

 「未来少年コナン」の世界にももちろんあったのだろうが、恐らくは宮崎監督のエンターテナーとしての良心から描かれなかったのであろうそれら現実が、ここでは情け容赦なく視聴者に突き付けられるのだ。

 無論、そんなものをアニメで見せられて面白いかという向きもあろう。あたしもそう思う。実際あまりの不愉快さに、何度途中で見るのを止めようと思ったことか。

 だがしかし、制作者が描こうとしたモノが、「架空の世界が解放されるおとぎ話のカタルシス」ではなく、まさに「今、そこにある救いのない現実」であったとしたら、我々はその部分をこそ評価するべきではないだろうか。であるならば、冒頭挙げたような「欠点」は、むしろこの作品をして必然であり、視聴者はそこに見る「やりきれない胸苦しさ」をこそ、価値として受け止めるべきであろう。

 少なくともあたしは、専制支配下の閉塞感、無力感に、テレビアニメにおいて、初めてリアルな手触りを感じさせられた。「ここから逃げ出したい」と思った。それは、独裁者でありながらどこかユーモラスだったレプカからは感じ取れなかったものだ。

 そして視聴後に、あたしは我に返って気が付く。「ここに狂王はいないのだ」と。そして「ここに狂王はいないけれども、テレビ画面の中ほどには離れていない場所と時間に、狂王はいるかもしれない」とも。そんな感慨に、ロジックではなくドラマによって視聴者を案内することこそが、「今僕」の眼目であったと言えるだろう。

 本作をして、「有り余る自由と幸福に窒息しかかって、それを自覚できない現代社会」に対して、「異世界(を装った遠くない現実)から放たれたシニカルな矢」であると総括することもできるだろう。しかしこれから視聴する方には、どうぞそんな理屈は抜きにして、この恐るべき絶望に満ちた空間を肌で感じ、楽しんでいただきたい。(楽しくないって)


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