No.13

ストレンジドーン

 「ストレンジドーン」全13話をようやく視聴し終えた。「魔法少女プリティサミー(テレビ版)」の脚本でそこそこの仕事をし、「カウボーイビバップ」でいい加減な仕事をし、「風まかせ月影蘭」でヤッツケそのものの仕事を笑われた女流脚本家、横手美智子氏入魂の一作である。
 WOWOWオリジナル企画であるこのアニメ、手放しで誉めることなどは出来ない、どちらかと言えば完全な失敗作と評せようが、少なくとも「しょうむない」と無視して良い対象ではあるまい。
 あたしは作品そのものではなく、横手氏の作家としての意地に感じ入ってしまったぞ。



 最初に読み解いてしまえば、本作は
「『社会』というものに『個人』ががんじがらめに封殺されている現状と、それが解放される事への(絶望と背中合わせの)切なる願望。そして『人』という哀しい生き物への大いなる賛歌」である。



 ある日突然、見も知らない異世界へと迷い込んでしまった二人の女子高生、宮部ユコと奈津野エリは、そこに暮らす小人たちの戦乱に巻き込まれ、自らのアイデンティティに故なく容喙してくる「社会」への齟齬感と怒りを爆発させてゆく・・・。
 てな感じのストーリーで、何かちょっと「聖戦士ダンバイン」を彷彿とさせる設定ではありますが、描かれるドラマの質と迫力は、「ダンバイン」のごとき産廃作品の追随を毫も許さない。



 物語は小人国家間の対立と、巻き込まれた小村の悲喜劇を縦糸に、ユコとエリのアイデンティティ再構築ドラマ、そして若き小人達の愛憎劇を横糸にして紡がれてゆく。
 眼目はもちろん横糸たる後者であって、女性らしいミクロな心理描写へのこだわりが、物語に活き活きとした躍動感を与えている。



 他者を思いやることなど空しい自己欺瞞でしかないと割り切り、ウェットな人間関係を嫌悪する、ペシミスティックな女子高生、ユコ。



 何事とも主体的に関わることが出来ず、そんな自分を嫌悪しつつも自己変革への一歩を踏み出せない、気弱で空想家なエリ。



 恋する幼なじみシャルの気を引くためになりふり構わず、結果係り合う全員の反感を買ってしまう、独りよがりな熱情家の美少女、レカ。



 そのレカの親友であるが故、たぎるシャルへの想いを必死に押し殺そうとする、しっかり者で心優しい少女、マニ。



 彼女たちとそれを取り巻く衆の群像が、戦乱の中で自らの有り様を藻掻きつ問い、自我を激突させ合って火花を散らす・・・それが本作のドラマとしての白眉を成しており、その迫力は全盛期の山田太一作品のようだ・・・なんつっちゃうとちょっとホメすぎか?



 人は「社会」を作らなくては生きてゆけない。「社会」を通じてでなければ、幸福を享受するどころかそれを自覚することすら出来ない。しかし人を最も苦しめ悩ませるのは、他でもないその「社会」である。
 古典的でシンプルなそのアンビバレンツを愚直に描ききっていることこそが、本作の眼目であり価値であろう。
 現代日本において、その「社会」の重圧に最も喘ぎ、アイデンティティを見失って窒息しかかっている若者を、狂言回しとして物語の中軸に据えた意味もそこにある。



 さて、ここまでは盛大持ち上げてきたので、以下はこき下ろすとしましょう。 
 本作でまず困ってしまうのは、横手氏が、その女性らしさを武器に心理劇を素晴らしい迫力で活写しているのとは対照的に、この異世界そのものへの俯瞰はいかにも淡泊で、リアルな説得力を欠いていることである。



 長く国境を接して角突き合わせているという2つの大国は、全く具体的なイメージをもって描かれないし、そこから派遣されてくる軍隊も、どちらがどっちなのやら非常に分かりにくい。ましてそこに国境付近の独立民族軍がからんでくるや、もう何が何だかワケワカメである。
 戦乱の中、民衆は飢餓にあえぎ、それがミニチュア的な民族主義を各地に勃興させているというのだが、「飢餓にあえいでいる」住民(小人)は、何やら
ムーミントロールのようにコロコロしたプニキャラであり、血色もすこぶる良さそうだ。
 かようにイメージが不徹底で混乱していては、視聴者は白けてしまうだろう。



 さらに難儀なのは、あの木に竹を接いでその先にソーセージをぶら下げたような、突拍子もないラストシーン。
なめとんのか横手!



 主要キャラ全員が、抑圧されていた心の内奥を大音声してチョン、という演出は、なるほど、

「社会から有形無形のストレスを感じているのなら、まずそれを声に出しなさい。でなければ何も始まらない」

というテーマをそのままビジュアルで代弁させたということも出来ようが、あそこまでアッケラカンとそれをやられちゃうと、視聴者にはもはや単なるアジテーションとしか映らない。あれじゃまるで、どこぞの電線を引きずったロボットアニメですよ。


 
作家たる者、ひとたび「物語」を表現手段として選んだのならば、どんなにしんどくても、そこから一歩も退いてはイケナイんじゃないだろうか?



 「ストレンジ・ドーン」には、一人の女流作家が、あまり恵まれない自己の才能に死力を尽くさせた気迫がうかがえる。それは確かだ。
 しかし職業作家であるが故か、上に述べたように、肝心かなめな部分でコマーシャリズムとスケジュールに妥協してしまった感もあり、それが本作を、とりたてて傑作だと推すには物足りない、凡庸なイメージに見せている。
 実に勿体なく思うと共に、同じ無能な女流作家として、ほとほと身につまされます。
 横手氏の一層の精進と、さらなる高みを目指すチャレンジに、心から期待します。


 追記・宮部ユコのCVを演っているのは、あの漂白しきったような美少女lainを演じた清水香織嬢である。アイドル崩れの腰掛け声優かと思っていたら、なかなか器用かつ邪気のない熱演ぶり。あたしは感心しちゃったぞ。


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