No.24

2001年夏映画(2)

千と千尋の神隠し


 宮崎駿の映画を見るときのあたしって、友人某に言わせると
「最初から敵意むきだし」なんだそうである。
 なるほどあたしは氏が嫌いであって、その作品には常々辛い点を付けてきた。(それぞれに、凡百のアニメが束になってもかなわない優良作であることはキチンと認識しているが)
 実のところクリエイターとしては心底尊敬しているのだが、どうも創作を通じて
「何か」をしなければならないと気負っているようなところが苦手であって、殊に最近のメッセージ性の強い作品にはほとほとウンザリさせられていたのだ。
 いいじゃん、創ったモノに何の意味もなくったって。
オツムの弱い活動家のアジじゃないんだからさ。



 それはともかく「千と千尋」である。
 実はしょうむないのだとか少しも感動できないなんて前評判を散々聞かされていたのだが、実際見てみるとなるほど舌足らずな映画であり、脚本を練り直せばもっともっと良くなることは確かだ。
 特に千尋と湯屋の従業員たちの心が繋がれてゆく様をもっと丁寧に描けばラストの感動は何十倍にもなるに相違なく、つまりはキャラ心理の移ろいが上手く活写されているとは言い難い。(内容に比して尺が短すぎることも一因であろう)
 そもテーマからして浅薄で力強さに欠けることは否めなかろう。
 乱暴にくくってしまえば、
「生きていることが実感できないガキは自衛隊にでも入れてしまうのが手っ取り早い」といった安直でグロテスクな主張と大差なく、しかも主人公たる千尋はそんなにまでして人間をタメ直さなければならないほどに始末の悪いガキではないので、いっそ気の毒だ。最初から結構強くて良い子だもんね、千尋。



 とまあ、かようにいびつな印象の仕上がりである本作は、劇場においてあたしの心に全くアピールしなかったのか?
 恥をお話しするようであるが、あたしはクライマックスで涙が止まらなくなり、場内に明かりがついてからもしゃくり上げているような有様で、実にバツの悪い思いをさせられた。
ズルイよ宮さん!
 何のことはない、あたしはすっかり「してやられて」しまったワケであるが、それはやはり、千尋の喜びと悲しみが大変な迫力で胸に迫ったからであり、その伝において本作は素晴らしい成功作と評せよう。


 
 人生には嬉しいことも悲しいことも等分にやってくるが、親しい者、大切な人たちと一緒でさえあれば、独りのときよりも喜びは数倍に実感され、逆に辛苦は辛苦でなくなる。そんな陳腐な人間賛歌を、ひたすら愚直に、しかし力強く謳い上げていることが本作の手柄であろう。
 だから上に書いたような文芸上の欠点は欠点として、
 「ステキな名前!まるで神様みたい!」
 と叫びながら大粒の涙をこぼし、宙を舞う千尋のあまりに美しい姿に、あたしはそんな不満など
全部チャラにしてお釣りが来ると思ってしまったのだった。



 宮崎氏が抱負として語っているように、本作が「10才の女の子たち」に「よって立つ確たるアイデンティティを持てない者は生きていないのと同じだ」というメッセージを伝えられたのかどうかは分からない。しかし次々に襲う試練と、そこから掬い上げたささやかな幸いに、怒り、泣き、笑う千尋の活き活きとした心情の迫力は、それを見る子どもたちの幼い自我にとって、またとない素晴らしいプレゼントであるには違いない。



 追記・ちと細かいことを蛇足に記すが、それにしても本作の美術の素晴らしさはどうだ。
どっこい生きてる宮崎映像魔術!
 きらびやかな湯屋のワクワク感あふれる猥雑さ。その上の従業員部屋は、吹き抜ける風の爽やかさが頬にふれるよう。冠水した軌道の上を黙々と往く列車のシーンなんか、あまりの美しさに見ているだけで泣けてくる。
 それらの情景には、見る者がそれぞれに違った懐かしさを掬い取れるような、ある種ゆとりのあるリアリティ(変な言葉だな)がある。
 例えば従業員部屋は、あたしにとって、幼児の頃一夏を過ごした海辺の民宿のようなイメージ。列車のシーンは、ある夏訪れたとき、台風で冠水した軌道が延々と続いていた道東の風景を強く喚起させる。作り物くさいモルタルの街は、これも旭川あたりのひなびた通りをイメージさせるなあ。
 鑑賞する子どもたちもまた、そこからはそれぞれに異なる懐かしさを感じ取るのであろう。見る人の数だけ別の世界が広がるジブリマジック!スゴイよ千尋!


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